書籍・雑誌

無知は罪

 心に響く、というかアンテナが反応する言葉が

あったので、引用します。

                                                              

~現代社会は、「愚か」で「無知」な人でも何とかやっていける

ようなのどかな時代ではない。

何とかだまされないための情報・知識・知恵を

持っていたほうがより有利に、自由に生きることができる、

ということを誰かが率直にアナウンスしなければいけない~

現代において「無知」は「罪」だ~ 

  『ダメな女』  村上 龍  (光文社) より

                                                                          

                                                          

数年前の、千人以上のおじさんたちが、ゴールデングループ

というインチキ会社にだまされて、総額二十数億円

をとられたというニュースで、リストラされて困っている

おじさんたちに、ヴェンチャー企業に出資すれば、

仕事と役職を保証するという手口の詐欺事件について、

書かれていた内容。

                                                             

千五百万円出せば社長になれる、などという

バカな話を、なぜ信じてしまったのだろうか。

リスクも負わない虫のいい話があるわけがない、

そんな話を信じるほど無知だった。

なのにニュースでは「無知だった」、という批判はなかった。

だまされた被害者が、かわいそうだ、ということが

声高に言われただけだった。

                                                             

これからの(現在もすでに)社会は、競争社会であり

能力主義の時代であり、個人の時代になる。

人生、先の長い子供たちは、昔とは全く違う社会を

生き抜かなければならないが、

そういったことをきちんと子供達に言っていかなければ

いけないと思うのだ。

                                                           

安楽な娯楽は、将来への不安を紛らわせるための役割

だと知った上で、自分の精神状態のバランスをとる

ために上手く取り入れるものだということ。

人は誰も大小の差はあっても不安のない人はいないので、

娯楽も必要不可欠なもの。

(それは後々にわかる)

                                                         

私は子供時代に社会性を身につけることが

できなかった(と思う)ので、成人してからが私なりに

大変つらかった。

やはりティーンエイジ(13歳から19歳まで)というのは

重要な意味を持つ、と思っている。

                                                                

村上龍さんの本はシンプルでわかりやすいタイトルだと

思いきや、常に濃密な内容なので必ずチェックする。

この本も的確で抑制されていてとてもよかった。

                                                            

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個人のクオリティ

 今、むちゃくちゃおもしろい本を読んでいる。

寸暇を惜しんで ”早く本を開いて読み進めたい!”

と思える本。

学校生活で、家庭生活で、社会で、誰も教えてくれなかったこと。

近代社会、そして近代過渡期(~70年代)のやり方や考え方

ではもはや人を魅了することはできない。

                                                          

それでもやり方を変えない日本国家の事実を知る。

対象に的確で、正確な文章なので、納得いく。

高度経済成長を遂げて、成熟社会となって20年ほど経過してもなお、

やり方を変えない日本社会が、病む理由がわかる。

 「自分が中学生のときに読んでおきたかった!」と

読んだ人のレビューの中にあった。

子を持つ全ての親、教師に読んでもらいたい、と。

                                                             

読後にどんな自分に変化しているか楽しみな本。

感想に乞うご期待。

                                                             

 『人生の教科書 よのなかのルール』

   藤原 和博   宮台 真司

       筑摩書房

                                                          

                                                           

あなたは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という

問いに答えが出せますか?

(こんな問いが出た時点で、大人社会は既に敗北している)

                                                       

                                                            

せめて個人のクオリティを上げよう。

次世代を本物に育てよう。

                                                         

                                                       

                                                          

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 面と向かってずけずけとものを言える人と、言えない人がいる

と思う。

個人的な意見だけれど、それって、目には見えない ”盾” が

あるかないか、だと思う。

この人には何となく思わずなんでも聞いてしまうとか、

この人には何となく聞くことができない、立ち入れない

っていうのがある。 

                                                        

そういうのは年をとるにつれてだんだん多くなってくるみたいだ。

幼少の頃は友達には何でも話せたし、何でも答えた。

隠すものなど何もない純粋な状態がむき出しだった。

その状態で、けんかだとか仲間はずれ(今思うとたいしたことのない)

のようないろいろな経験をしていく。

大人になってくると、守るもの、伏せておくべきものが増える。

またそれがないと、コア(核)となるやわらかい心をちゃんと

守り、キープし、動かし、成長させていけないから

必要になるのだ。

                                                             

社会的地位を守るため、社会的責任を果たすため、人権を保護

するため、人との争いを避ける防衛本能。

人と接して感じる、その人をヴェールのように覆い隠す 

壁のようなえも云われぬ ”なにか”は、きっと盾のことだろう。

                                                                    

思うに人とうまくやれない、不器用、誤解されやすい人は、

この”盾”が機能していないのかもしれない。

盾を持たずに戦いに挑む者などいないように、

社会で生き抜くためには、盾を見つけることが必要だ。

                                                              

生きていくうちに自分で見つけ、形成していく ”盾”。

村上 龍さんの著書 「盾 シールド SHIELD」 

(はまのゆかさん :絵 の絵本)には

目からウロコだった。 生まれてから生きていく中で誰でも通過する

感情をこれほどわかりやすく表しているものに出会って、

なんだか心底ほっとした。 

私は彼の著書 「ポストマン」 (同じく はまのゆかさん 絵)

に心を鷲掴みにされ、思いついたらいつもページをめくっている。

作家というのは、羅針盤のようだ。

自分が今位置している場所を、示してくれる。

                                                               

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因果応報

 「・・・・・ 死に方の違いも、

納得できる見方ができないものだろうかと考える。

 その人の死に方は、それがその人にとって、必要だから。 そう、思う。

その人をお世話する関係者がいる場合、それもまた、

その関係者にとって必要だからだと思う。 そこに、なにかしら、

学ぶべきものがあるはずだ。あるいは、そうなるべき必然性が

あったのかもしれない。自分の行った行為、生きてきた人生の中に。」

     「ばらとおむつ   銀色夏生」 (角川文庫) より 引用                                                          

                                                              

                                                                     

先日、80歳の男性がトンネル内でトラックにひかれて亡くなったのは

だれもが衝撃を受けた報道だったと思う。

                                                               

青春がないまま戦死していった友人たちに、

自分は人生を楽しまないで逝ったなら会わせる顔がない、

という思いをいだいて

日本全国をひとり自転車で一周し、終盤、自宅まであと40km

というところで迎えた、人ひとりの死に方の在りようだった。

                                                                   

不謹慎だと思わないのであえて書くのだけれど、

私は、この人は人生に悔いはないと思った。

人間は誰でも必ず遅かれ早かれ、生まれた以上

死ぬのだ。

私は常に、自分もいつどこでどうやって死んでも、ちっとも

おかしくはない。と思っている。

             

                                               

テレビに映った生前の80歳の男性の写真、

そこには年を重ねた青年の姿があった。

自転車で鍛えられ体、若々しい生命体であった。

うたれた。

なぜか悲しいニュースには思えなかった。

ともに悼み、ありのままを受け止めるだけだ。

すばらしい生き様を見せていただいた。

                                                      

人は死ぬまで学ぶべきことがあるし、生きる目的がある。

この肉体を脱いでからもきっと死後の人生は続くのだろうと思う。

そう考えるならこの人生は納得できる。

そんな話を交わせる友人がいることも、私には無常の喜び。

そうだ、いつだって、初期の衝動(腹が立つ、苦しい、あれが欲しい!とか・・・)

を乗り越えれば、なんてことない。                                                          

                                                                             

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寸志

   賑々しきなかの

                                                                       

言葉が多すぎる

というより

言葉らしきものが多すぎる

というより

言葉と言えるほどのものが無い

                                                                

この不毛  この荒野

賑々しきなかの亡国のきざし

さびしいなあ

うるさいなあ

顔ひんまがる

                                                                                       

詩として

たっぷり充電

すっきり放たれた日本語に逢着

身ぶるいしてよろこぶ我が反応を見れば

日々を侵されはじめている

顔ひんまがる寂寥の

ゆえなしとはせず

                                                                                    

アンテナは

絶えず受信したがっている

ふかい喜悦を与えてくれる言葉を

砂漠で一杯の水にありついたような

忘れはてていたものを

瞬時に思い出させてくれるような

                                                                                     

          (寸志:  茨木 のり子)

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無我夢中

 吉本ばななさんの感性が好きでこの人の本はよく読む。

20歳前後の一時期に読んで、最近ふと手に取ってからどんどん

無我夢中で読んでいる。

人生でもっとも大事な時期である思春期の、微妙で儚い感受性を

言葉にしてくれる。

イルカ

思春期の年代や若い年代の登場人物ばかりが出てくるが、不思議に、

思春期だけでなく今もこれからもずっと大事な感情を

文章にして見せてくれて、ほっとする。

 人生でここいちばん大事な時に人に介入されて、すごく

つらい思いをしたことのある人にはカタルシスになるだろう。

今、一所懸命に ”その時” を取り戻すかのように、

無我夢中で読んでいる。 

戻るはずもない時なのに、そういう行為に、そういう過程に、

気がつくと光は落とされるのだろうとおもう。

                                                                

                                                               

ここぞというときの、その光を見落とさないように、

心をみがいていけないものだろうか。

明るいところでは光は見えない。

光は見るものでなく、感じとるもの。

                                                                      

                                                

安藤忠雄氏の講演会の中で、安藤さんが何度か使っていた、

”無我夢中” という言葉。

いまの若い人たちは、仕事がないとか面白くないとか言う前に、

無我夢中でやって、自分で仕事を見つけていき、

無我夢中でやらないと見つからない、という内容のことを話していた。

              

                                                

この、物にあふれ、お金さえあれば何でも手に入る時代に、

日本に生まれ育てられた若年層に、無我夢中という言葉は

どれだけ真実味を帯びて届いているのだろうか。

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遅ればせながら・・・

映画 「ナイロビの蜂」を観た。

アフリカで起こっている現実の世界の現状が衝撃だった。

人間の業の深さ、営利主義、俗欲、無知 それらと対峙する

魂の深い愛、命、 ・・・

ほんとうに深い深い内容だった。

ホテルルワンダ も忘れられない映画だが、この ナイロビの蜂も

観てよかった。 

光と影、陽と陰、+と-。。。 同じように世界には

裏と表が同時に存在することを(わかってはいても)

突きつけられる。                                                          

利己的な強欲の向かう先は破滅なのだと、

何回でもいい続けてほしい。

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うつくしい宝物

 うつくしい宝物

                                                               

海女(あま)さんたちは、海の中で発見したいちばんすてきなものは、

こっそり海底に隠しておくそうです。

うつくしい真珠貝、

愛するひとに食べさせてあげたいアワビやホラ貝・・・・・・

いちばん気に入ったものを、

自分だけが知っている岩陰にそうっとしのばせておくのです。

                                                            

だれも知らない、胸のどこかに忍ばせた自分だけの秘密は、

ほうんとうにすばらしい宝物となるでしょう。

それがあることで、気持ちが強くなったり、

さびしさが消えたり、余裕が生まれたり、

また自分だけの香りが生まれたりするのなら。

                                                           

    

あなたにはそんな宝物がありますか?

胸の中にとてもうつくしく刻まれている思い出があって、

それさ考えていればおなかも空かないとか、

今はそばにいなくても、

どこかにあなたを応援してくれているひとがいて、

そのひとのことを考えれば強くなれるとか、

そんな、こころの中での出会いのようなものがありますか?

また、苦しいときになると、そっとあなたのこころを訪ねてくれる、

あなただけの天使のようなひとがいますか?

                                                        

     「ハル 哲学する犬」  著者:クォン・デウォン  訳:蓮池 薫                                                                                                     

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ハル

8月の雪だるま

                                                               

8月。

道を歩いていて額や首や背中から、

汗がじっとり流れるたびに、今ぼくは

溶けているんだなあっていう思いにかられます。

まるで雪だるまのように、いつかはぼくたちも、

この世からあとかたもなく、溶けてなくなってしまうでしょう。

夏の一時、さかんに茂っていた木の葉や、そのなかで生きるぞって

やかましく啼いていたセミ、あたりに咲き乱れていた花々も、

夏が終われば、なんら痕跡(あと)を残すことなく

消えてしまうでしょう。

                                                           

                                                              

雪だるま、8月の雪だるま・・・・・

そう、今わたしたちは溶けています。

皮膚も、心臓も、記憶力もすこしずつ溶けているのです!

3分の1ぐらい?半分くらい?

ひょっとしたらそれ以上かもしれないくらい、

溶けてしまった自分たちの姿を思い浮かべてみると、

なんだか、おかしくもあり、悲しくもあります。

今から100年後、この世の中は、

わたしたちの見知らぬあたらしい雪だるまたちで、

いっぱいになってしまうことでしょう。

                                                               

                                                           

だから、今このとき、いっしょに働き、憎み、愛し、

溶けているあなたが、

こよなく大切に思えるのです。

                                                                     

         「ハル 哲学する犬」  著者:クォン・デウォン  訳:蓮池 薫      

                                                                        

                                                        

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天涯2

 「この肉体の中で、われわれはいったいなにをしているのですか」 

僕のそばのベッドで横になる支度をしていた紳士が言った。

 その声はこちらの意見をたずねるというふうではなく、

質問というよりはただ確認をもとめるような調子だった。 たとえ

質問だったとしても、僕にはこたえられなかっただろう。

軽々と、そして、インド人特有の慎重さと控えめな身のこなしで

部屋のなかをあちこち動く彼の痩せた影を、駅のプラットフォームの

電灯の黄色い明かりがペンキのはげた壁に映し出していた。

遠くから、ゆっくりとした単調な声が聞こえていた。たぶん

祈りの声だろう。 あるいは、ただ嘆きを表現するだけで、

なにも願わない、孤独で希望のない嘆きだったかも知れない。

なにを言っているのか、意味を理解するのは、

僕には不可能だった。 これもまた、インドなのだ。

平板な、明確な区別のない、朦朧とした音の世界。

 「これに入って旅をしているのではないでしょうか」 と僕は言った。

 質問されてから、かなり時間が経っていたかも知れない。 僕は、

遠いことを考えてぼんやりしていた。 しばらく、うとうとしていたのかも

知れない。 僕はひどく疲れていた。

 彼が言った。 「なんて言われました?」

 「肉体のことです」 僕がこたえた。 「鞄みたいなものではないでしょうか。

われわれは自分で自分の運んでいるといった」

                                                                                            

            アントニオ・タブッキ 『インド夜想曲』 (須賀敦子 訳)

                

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天涯

 我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで

極めて重要な役割を果たすものなのである。

或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか

湧いて来ないものであって、

芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、

音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために

一人にならなければならない。

しかし女にとっては、自分というものの本質を

再び見出すために一人になる必要があるので、

その時に見出した自分というものが、女のいろいろな複雑な人間関係の、

なくてはならない中心になるのである。                                                                           

           アン・モロー・リンドバーグ 『海からの贈物』 (吉田健一 訳)

         

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ポケット詩集

 何年か前に本屋でふと目に留まり、手に取った詩集がある。

帯のことばにぐっときて、次の瞬間、レジに並んでいた。

本を買うときは出会いだ。

その本は、そこだけにスポットライトがあたっているかのように

目と目が合ってしまうのだ。                                               

 

 『昔の少年は詩をよく読んだものだ。それも、とびきり上等の

詩ばかりを、だ。そしてよく考え、「足る」を知った。

みんなへっぴり腰を恥じて涼しげな目の下に、

素朴な正義感をひそかにかくしていた。こどもよ、そして

子どもの心を持った大人たちよ、この時代にとびきり志の高い

詩を読みなさい。』

                                                               

 こころに大事な詩を持っているひとは強い。

きっとそうだ。

                                                        

                                                               

 儀式

                  石垣りん

(ポケット詩集Ⅱ より)                                                            

母親は

白い割烹着の紐をうしろで結び

板敷きの台所におりて

流しの前に娘を連れてゆくがいい。                                                                

                                                                                                      

洗い桶に

木の香のする新しいまないたを渡し

鰹でも

鯛でも

鰈でも

よい。

丸ごと一匹の姿をのせ

よく研いだ庖丁をしっかり握りしめて

力を手もとに集め

頭をズブリと落とすことから

教えなければならない。

その骨の手応えを

血のぬめりを

成長した女に伝えるのが母の役目だ。  

パッケージされた肉の片々を材料と呼び

料理は愛情です、

などとやさしく諭すまえに。

長い間

私たちがどうやって生きてきたか。

どうやってこれから生きてゆくか。                                                       

                                                                                 

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私と私の間に

 私と私の間に河あり

 誰も渡れぬゆえ

 言葉なげこむ

              (橘川 幸夫)     

 

                                                                                                                                                                                                                  

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ちょっとそこのあんた、顔がないですよ

いのち、が見えない。

生きていることの中心(コア)がなくなって、

ふわふわと綿菓子のように軽く甘く、口で噛むと

シュッと溶けてなさけない。

しぬことも見えない。

いつどこでだれがなぜどのようにしんだのか、そして、

生や死の本来の姿はなにか。

今のあべこべ社会は、生も死もそれが本物であればあるだけ、

人々の目の前から連れ去られ、消える。

街にも家にもテレビにも新聞にも机の上にもポケットの中にも

ニセモノの生死がいっぱいだ。

本当の死が見えないと、本当の生も生きれない。

等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の

生死を感じる意識をたかめなくてはならない。

死は生の水準器のようなもの。

死は生のアリバイである。

                            (藤原 新也)

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白日日記

 時間が解決出来ないものだけを

僕は僕の問題としたい。

 ( 橘川 幸夫   白日日記 2001/4/18 )

                                                                                                                 

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