日記・コラム・つぶやき

ゆるぎない芯を持つこと 

 私は自分に突きつけられる問題に直面したとしても、

あわてたりはしません。

なぜなら、その問題なり状況が起こるということは、

その時点での自分が、その事に耐えうる力が備わっていると

考えるからです。

                                                         

                                                               

それまで苦しんでいたり悩みがあると、何らかの形で、

(さまざまな本を探し、読んで学習するとか、人に話を聞いてもらって

助言を示唆してもらうとか、人の話を聞いてヒントを得る、あるいは

何でもいいので何か作業をしている中でわかることなどなど)

人は、絶えず自分の内的な力を発揮し何とかしようと働きかけるもの。

                                                          

                                                        

なので、意識に置いて、努力し続けていれば結果として生じた事に

耐えうることができると思っています。

それまでやり続けていた努力などは貯金として残高にあるので、

あわてる必要がないのです。

                                                           

ここまでの考えに至るまでは随分かかりました。

自分にしてみれば多くの書籍も読み、積極的に高い意識の

舞台芸術にも触れ、学ばせてもらい。

このことは、 『7つの習慣』 スティーブン・R・コヴィー著

に、とてもわかりやすく書かれています。

(最近、相方が見つけて仕入れた本)

1996年からの大ベストセラーで、現在まで第61刷発行されています。

驚くべき数字です。

これは、人生のあらゆる局面においての普遍性を示しているの

だと思います。

                                                          

 『7つの習慣』は、私の座右の書となり、人生の道標と

なっている。これほどに人間を深い慈愛に満ちた目で捉え、

書かれた本を私は知らない。

          ― ザ・リッツ・カールトン・ホテル 日本支社長

                              高野 登

                         (本書 裏表紙より)                                     

 

                                                          

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賛成の反対の賛成ナノダ

 JMM(Japan Mail Media:村上龍氏が編集長として

発行するメールマガジン)の回答者として登場する妙木浩之氏

の著書が、興味深い。

心理経済学講座 『好きできらいで好き。』

                                                             

非常に個人的なことを洞察力鋭く吐露していくMAKIさんとの

メールのやり取りを、臨床心理学、精神分析学のスペシャリスト

である妙木さんと交わしているもの。

                                                           

私個人には共感するものが多く、MAKIさんの非常に個人的な

事であるにもかかわらず、その家族環境、育ち方において

感じていた彼女の気持ちが、私と似ているところがあり、

妙木さんの回答が琴線にガンガン響いてくる。

                                                         

もはや、個人的なことというのは、ひいては万人に共通する

悩みであったり、抱えている問題になっていたりするのだ

ということを、このメールのやり取りは示してくれる。

(だからあえて人に読まれる前提で書かれたものであり、

著書となって世に出版されるのだろう)

                                                          

各人が育ってきた密室(家庭)が、経済につながっている

ということを感じずにはいられない。

子を持ち、その子は大きくなり社会で経済の担い手となり、

消費者となる。

そんなごく当たり前のようにみえるような、出産を通して

各家庭から新たな個人が出て行くことの重みを、

言葉で解説してくれて、わかりやすい。

                                                       

親の思い込みで、間違った定義を子に伝えることが

その子の将来の考えにどんな影響をもたらすのか

が見える。

ゼロか百か、でなくその中間領域が実は重要な役割を

果たすということもわかってきた。

                                                           

私の場合、成熟していない親を本能で察知していたのか、

小学生の頃から、悩みを相談する相手も分かち合う相手も

友達、あるいは社会に出た後でも学生時代の恩師であったりと、

すべて ”外”に向かっていた(そして現在も)。

それをべつに何とも思わず自然に外に向けていたこと

というのは、私の薄い親子関係を表していたのだと思う。

                                                         

私が興味を持っている ”無意識”の領域を解き明かしている

「失錯行為」について、フロイトの見解には、なるほど!と

大きくうなずいてしまった。

(文中には例としてあげた行為があって)つまり、これでヨシ

としてやったことが何度も失敗しているのは、

ほんとうはそれを自分はやりたくなかったので

結果的に失敗とてして返ってくる。

意識の上では失敗しているのだが、無意識の領域では

成功しているのだということ!

                                                       

なんだかスピリチュアルな話だが、心理経済学にも

つながっているわけ。

超個人的な事とは、誰かの個人的な事につながって

いるのだと私は思うので、このブログを書いています。

(みなさんもそうではないだろうか)

妙木さんの心理経済学講座シリーズはJMMにて

無料で読むことができますよ。(オススメ)

                                                        

                                                         

                                                                 

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人間育て

 児童精神科医、佐々木正美先生の書いた本

(子どもへのまなざし 等)を読むにつれて、だんだんと、

自分の幼少期の発達過程をも解き明かされていくような

感覚になる。

乳幼児期は育児にとって基礎の時期であり、この時期を

どう子どもとつきあうかが、その後の子どもの人格の形成に

大きな影響を与えるということ。

(くわしい内容は先生の著書を読むことをおすすめします)

                                                                   

言うなれば、この時期は建物でいう基礎工事であって、

基礎工事がしっかりできていれば、あとはリフォームしようが

建て増ししようがどうにでもなる。

人間で言うと、乳幼児期の基盤があれば、どんな高校、大学に

行こうがいくらでもやり直しがきく。

                                                                

建物ならば、基礎工事もすべて取り壊し、最初からやり直す

ことは可能だ。

しかし、人間だとそうはいかない。

10歳になってから、30歳になってから幼稚園に行き直したり

などできないのである。

                                                            

乳幼児期の基盤がないと、思春期、青年期以降に大きな

影響が出てきて、その後の将来の生き方にもそれは及ぶ。

(”育てなおし”することでしか治療できない精神の病もあるという)

                                                        

子どもの乳幼児期に親がどんな気持ちでいたか、どんなふうに

接していたかは、子どもが成人した後にいつかバレる時が

くることだってあるだろう。

なぜなら、子ども自身が社会に出てからのつまずき方や、

うまくいかない人間関係の中でいやおう無く向かってしまう

原点だからだ。

日常生活で忙しくしている時は、ただ気がまぎれているだけで、

本質的な問題がなくなったわけではないのだから。

                                                           

子ども自身が成長してから本人の努力で取り戻したかのように

できるにはできるが、多大なエネルギーを要するという。

                                                             

 私の場合は、成長するにつれて親(主に父親)の気持ちを

先に読み取り、親が喜びそうなことをするのに心を奪われて、

親に手を焼かせないような子どもだったので、精神状態は

不健康だったのだと、この本を知ることで理解したのでした。

(10歳で拒食症になったのもその表れ)

                                                             

また、幼少期にならなおさら、親が担わなければならない役割を

親が果たせなかったために、小さな子どもがそれを

させられているという奇妙で不健康な状態。

それでもまだ昔は、近所に幼なじみや同じクラスの友達が

けっこういて、毎日の遊びのなかで子ども同士で

育ちあうことができた。                                        

                                                           

社会背景が変化した現代は、人間育て、

どうすればいいのだろう。

みなさん、どうしておられるのでしょう。

 

                                                       

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社会性と発達過程について2

 社会性の発達には、人を信頼できるということが

基盤にあるらしい。 それは乳幼児期に得た母親への

信頼感であるという。

乳幼児は、オムツを替えて欲しいと泣き、お腹がすいたと泣き、

退屈だと泣き、寂しいと泣いて、母親を呼びつける。

                                                                     

自分では何もできない時期に、母親を振り回すくらいである

といいという。

この乳幼児期に、十分な依存をし、それに対して十分な

愛情を得た経験があると、児童期に他者との

コミュニケーションがうまくできるようになっている。

(ひいては将来大人になってからのコミュニケーション

上手の基盤もここにある)

                                                           

この十分な依存期間に愛情を受けた上でないと、「しつけ」

は成り立たないという。    いわるゆ”父性”が受け持つ、

社会のルールや規則を教える役割のことだ。

(たとえ、離婚などで母親しかいない場合でも、その父性の

役割もやることは可能なのだと。父親だけの場合も然り)

                                                             

注目すべきは、家庭の中の夫婦の力関係が大きな影響を

その後に残すことだ。

父親は家庭の中で、第一の主導権を持ち、導く役割で、

両親と子供の位置づけにはっきり境界線があること。

(子供中心でない)

この場合、父親は安心して迎えられる主導的役割を果

たしているので、自発的な楽しい家族団らんがある。

                                                        

反対に、家庭の中でも支配、権威的で厳格な生理整頓や

礼儀作法など秩序を厳格に守らせる頑固で支配的な父親と

母親も同じような傾向を示し、あるいは協調ではなく、

競争的な力関係の葛藤を持っている家庭では、

子供が二つの障害を起こしやすいという。

                                                            

一つは、子供の心理的内省エネルギーが家庭の内側に

求心的に向かう場合で、彼らは自らの感情の表出を抑圧し、

非社会的で自発性の乏しい行動様態を身につけて、

神経症の状態に陥りがちとなる。

場面緘黙、登校拒否、拒食症や過食症の青少年は

こういった状況から生まれやすいという。

                                                         

もう一つは子供の心理的エネルギーが家庭の外側に遠心的に

向かう場合で、非行など反社会的な不適応行動を示すもの。

この両親は相互に葛藤パワーを強く持っており、相手を

自分の意志どおりに操作しようと競い合う緊張関係にあることを

観察結果は明らかにしているとのこと。

                                                         

それから、女の子にみられるもので、母親が女性として、

子どもが肯定するような母性を十分に発揮できなかった場合、

母親(女性)への同一化を避けて、男性的な行動様式を

とったり、男性的なやり方での自己主張をする性格をつくりあげて

いく人たちもいる。

                                                          

同様に父親への拒否的な感情が優位になると、男の子どもは

男性化の発達が停滞し、受動的、依存的行動様式を示す

ようになる。

                                                              

人間が、人間になっていく過程の心理的要素は複雑である。。

人間の発達について知ることが、自分には必要と思っている

人たちにはこの類の本を手に取ることになるだろうと思う。 

                                                            

                                                       

    

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社会性と発達過程について

 このところ、児童精神医療のことばかり、素人なりに

憚らずも書いているが、それは私にとって

(私の生い立ちとその家族環境)、知らなくてはならないことの

ひとつだからであると思っている。

乳幼児期に親にどう接してもらったか、12歳までに適切な

発達課程を経てきたかが、その後の長い人生に深く関わること

になると痛感しているからだ。

                                                            

子育て中の友人に教えてもらった児童精神科医の

佐々木正美先生の書いた本を読んで、なるほど今までの

謎が解け、納得できる良質な回答を得ることができた。

                                                               

 「自分が本当にやりたいことを手控えて、親を喜ばせようなんて

考える必要は少しもない。そんなことでは、一度きりの人生が

残念なことになる。親を踏み台に大きくなっていけばいい。

親より先に死ななければそれでいいんだ」

  『児童精神科医が語る 響きあう心を育てたい』

         佐々木 正美 著 より

                                                        

過保護と過干渉の違いなど、理解している人はあまりいない

のではないだろうか?

(もっとも、今では誰も教えることができないのが現状でしょう)

私も初めてほんとうの答えを知り、目から鱗が落ちました。

つまり、本人が自ら望んでいることはどんどん手伝い、保護して

あげることがいい、と。

(命に関わる危険や社会的に許されないこと以外)

その過保護でおかしくなった子どもを見たことがないそうです。

                                                         

過干渉とは、本人が望んでもいないことをやってあげること

だそうである。これは親自身の望みでありエゴである。

このところを勘違いしている人はかなりいるのでは

ないだろうか?

引きこもりになることのない人間を育て、社会に送り出す

ことは大人の重大な責任。

                                                             

不幸にも、乳幼児期から児童期までに発達に適切な課程を

獲得することのできなかった現代の多くの人たちには、

一人でも多くこの児童精神科の内容を知ってもらいたいと思う。

そして自分の子どもに同じことを連鎖させないように

することに力を注いでほしいと思う。

                                                                                                                       

たくさんの兄弟がいて、ご近所社会が成り立っていたために

母親がきちんと社会性を持っていたむかしむかしの時代とは

変わり、今の時代に合った社会性の身に付け方を

模索していかないと、将来、本当に社会性のある人間が

いなくなってしまう可能性だってあるだろう。

                                                           

危機感を共有できる人たちが増えていくことを心から願う。

                                                          

                                                            

                                                        

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知恵

子どもが親のことを思いやるようになったら、親の末期だ。

親というのは死ぬまで一方的に子どものことを

思いやる存在だから。

           (佐々木 正美のことばの森)

                                                            

 親を大事にするということがどういうことなのか、

この児童精神科医の佐々木正美先生のことばが

教えてくれる。

                                                            

子どもの自立心を育てるということは、周囲の人に頼ることを

教えることである。

                                                              

自分では何もできない時に周囲の人に手をかしてもらったことと、

自立の芽とは深いつながりがある。

                                                                   

 人に頼ることの下手な私が、自立に苦しんだのは

そういうことだったのかと思う。

人の力をかりること、人を頼ることがいいことだと知ったのは

最近です。。。

人は頼りあい、 支えあう共存体なのですね。

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移動しはじめるときだけが

 いつでも飛行機や車や電車に乗っていたかった。

あまりあれこれ考えなくていいし、自分がふらふらしていることを

忘れることができる。

                                                            

 移動しはじめるときだけが好きなのだ。目的地が近づいてくると

少しだけ憂鬱になる。 また地面におりてその中の時間に

入り込まなくちゃならなくなる。 そこにはいろいろな人々の

気持ちが渦巻いていて、私はそこに少しずつからめとられ、

なにかをもらったり吸い取られたりする。

それこそが生きていくことだってわかっているからこそ、

いやなのだ。

         『彼女について』 よしもとばなな

                                                           

 よしもとばななの小説にはそこかしこに、私の気持ちが

表現されていてハッとすることが多い。

小説を読んでいる時間がすきである。

小説家の役割というものに惚れ込んでいる。

                                                            

世の中に様々な仕事が存在し、それに従事する人々がいて、

なにかしらの役割を果たしているもの。

自分ができないことは他の誰かが担っている。

他の誰かができないことを自分が担っている。

そうやって世の中まわっていく。

                                                          

一瞬すれ違う人、出会う人それぞれにその人の

人生の層がある。

なにを背負い、なにに向かってどこへ行こうとし、

なにになりたいかを、自覚している人は

凪のように静かだ。

                                                             

                                                             

                                                            

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読書のススメ

 草は花を咲かせ枯れていく。

 老木の養分が新芽を育てる。

                                                              

この頃は、衰えてゆくことを悲観的にとらえないようになった。

「年はとりたくないねぇ」 などど嘆く中高年をたまに見かける。

そうだろうか。

いつまでも若いアマちゃんのまま、空虚なまま、不老不死に

なりたいとでも本気で思っているのだろうか?

                                                           

ちゃんと年をとり、年々いろんなことを解するようになり、

若い時より少しは賢くなって、ものの見方も広くなることは

面白いことだと、いま私は個人的に思う。

生まれたからいつか死ぬ。

(哲学者の故池田晶子さんも著書で言っていた、死因とは、

どんな病気によらず、生まれたことによる)

                                                             

日本は経済成長期もとうに終り、成熟化を迎え、生とは、死とは

を振り返るちょうどいい時期に映画『おくりびと』が作られたものだ。

なぜこんなに支持されるのかはアカデミー賞を獲得したから

だけでなく、日本人、いや人類にとって必然なタイミングに

適切だった、としかいいようがないように思う。

                                                              

声を大にして言おう。

年をとることを楽しもう!

増えていく皺、衰えていく身体。 それは今生きている瞬間

にしか起こらないたしかな現象。

受け容れて、川の流れのように生命を流れさせたい。

                                                           

たくさんの本を読んで考える力、考えぬく力をつけて、

若い時からそうしてきた人は必然と、

まちがいなく未来を形成する担い手となることでしょう。

                                                          

『おくりびと』主演のモッくんをはじめ、小泉今日子、薬師丸ひろ子、

そういった中年世代の人たちがどんどん素敵な顔つきになり、

魅力と輝きを増してきている。

人間的な内容の深みとともにオリジナリティがおのずと表に出る。

素敵な中年世代の人たちが見本になると、若年世代の人たちも

生きやすくなると思う。 

                                                        

白髪が老けさせて見える。シワが痛々しくみえる。

そういう人と、逆に魅力にみえる人との違いが、

中年以降、如実にはっきりと分かれてしまう。

                                                      

春です。

本を読みましょう!?

                                                                                                                  

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事件簿?

 警察の方が家に二人たずねてきた。

警察というから、制服を着た人が来るのかと思っていたが、

私服の刑事さんだった。

"刑事” という職業の人はテレビドラマでしか見たことが

なかったので、興味津々、初対面。

                                                           

 かれこれ一年ほど前、スポーツクラブの会員証をどこかで落とし、

それが忘れた頃になって見つかったとのこと。

所持していたのはなんと!車上荒らしを繰り返して警察に

捕まった犯人だった。

犯人の盗んだ数あるもののうちの中に、私の会員証があった。

                                                          

警察の方によると、犯人は初犯ではあったが他人の名前が

入ったものを盗み、あるいは拾い、集めるクセがあるという。

聞けば妻子もある中年の男だというではないか。

せんだって判決が確定し、執行猶予付きの懲役2年。

それで、警察側で盗難品を被害者に返す作業を行っているというわけ。

(ここでやっと、振り込め詐欺関係の偽刑事ではないと

安心した私であった)

                                                             

他の被害者の方々はバッグや貴重品もあったらしいが、

私のはなんせ、つまらぬもの。

わざわざ山形の警察署(犯人は新潟在住で、秋田出身のため、

途中の山形でなんらかのわけで御用となった)から、

新潟まで出向き、それぞれの被害者へ返却作業をしている

ということであった。

                                                            

ご苦労様です。

金銭価値のない、たかがスポクラ会員証、されど名前の入った

私物である会員証。

ほんとうに、骨折り作業だ。

こんなもののために来てもらって申し訳ない思いで一杯に

なりながらも、刑事課のこまめな処理対応に感服。

                                                            

だけど。。。。もっとなんとかならぬものだろうか。

新潟の警察に引き継いで、引き取りに来るまで預ける等、

同じ警察組織なのに、、、、と、

腑に落ちない思いに駆られました。

(山形から交通費、宿泊費をかけて出向く必要があるの?)

                                                      

私服の刑事さんと初めて応対したが、知らない世界を垣間見

たようでちょっとドキドキ。

年若い青年と老練した風のベテラン刑事の二人組みというところも

ドラマと同じではないか!

                                                           

事件なんてのは絵空事、と思っていたが、

事件は日常の中にあるのだと思った。

いつ事件に巻き込まれても不思議ではない。

刑事もののテレビドラマがなぜあんなにあるのか、作るのか、

それって、人生には表と裏があり、生き抜く上では汚いものも

見なくてはならないという、この世の厳しさを無言のうちに

知らせているように思えてくる。                                                       

                                                            

この世に生を受けて初めて知る不浄の世界。

幼子だった無垢な子供もいずれ、人生の表裏、光と影を

知らなくて生きてはいけないのだ。

善と悪、表と裏。

どちらも共存して初めて人としてどう生きるべきかを

考える既得権をもつことができるような気がする。

                                                              

それにしても犯人逮捕の現場、現実って、どんななのだろう。

なにを隠そう私、よくテレビで見る「万引きGメン」を

やってみたいと思う方なので。

                                                            

                                                          

                                                           

                                                           

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遅れて来た感動

 読みたいと思っている本が山ほどある。

全部を単行本で買ったりなどできないので(べらぼうな金額になってしまう)

たいていは図書館のHPで検索して、あれば借りたり、

貸し出し中ならば予約を申し込む。

出版直後の人気小説などは、多い時には300人待ち、という

すさまじい状態にもなる。                                                       

順番が回ってくるのは数ヵ月後。

あたりまえだがその時読みたい!と思っていた情熱と

テンションの高さはだいぶ落ちている。

                                                                 

何年も前に出た本ならば、古本屋で文庫本になっているのを

探したりして、そこで、以前からつねづね読みたいと思っていて、

機会を逃していた本に出会うと、

「なんて傑作なんだ!」 と、今さらながら世の中の感動と喝采から

かなり遅れて、ひとり万歳をしたくなる。

                                                        

偶然目についた本を読んで、テンションがあがったときなど、

「こんなすばらしい本をなぜ今まで自分は知らずにいたのか!・・・」

などと、ひとりハイテンションの渦中、最終ページの初版年を確認して、

これを執筆した著者、出版にかかわった人々の思いの強さと

重さに圧倒されてしまう。

                                                       

映画も然り。

気になった作品(本も映画も)は、事前にAmazon.comで作品

レビューをみたり、情報収集をしてから借りる。

そうしていると、一度気になって、しかもレビューや業界人の

評価に心動かされると、いてもたってもいられなくなって

即行。 借りに行く。

(動物占いではチーターなので、瞬発力勝負)

                                                          

レビューなどは個人の価値観で感じ方が違ってくるので、

参考にはするけれど、自分の感じ方に向き合うようにしている。

どんな作品も、自分の心象風景を見ていることに、後で気づく。

自分がどんな風に育ってきたか、どんな環境で生きてどんな考えを

持っているかで、当然ながら感想はちがう。

                                                        

私は、人は人生の中でなにを見てきたか、何を感じてきたか

は、その人の持つ雰囲気や選ぶ言葉におのずと表れる

と思っているので、感性のアンテナは常に高くしていたい

と思う。  

                                                             

 後になって、その時のあたりまえのように流してきた学生時代

の出来事や感覚が、どんなに有難かったかを

思い知ることが多くなった。(年を重ねて)

その質感みたいなものが今、哀しみとなって、胸を熱く下っていくのを

ささいな局面で感じている。

                                                           

                                                           

                                                            

                                                         

                                                    

                                                                  

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子供の頃の重要期間

 脳機能には 臨界期があるのだそうです。

(前回のブログの続きー)

もともと脳の発達には 非常に重要な、クリティカルな期間

(critical period)があり、日本語では「臨界期」(無理やり日本語に

すると)と呼ぶことが多い。

この期間での環境や経験は脳のはたらきと構造に

大きな影響をもたらし、その影響は一生涯続く(どこかの

保険の売り文句?!)ことも多い。

                                                          

その最重要期というのは子供の頃に集中していて、

生後から4歳とか8歳、あるいは思春期に入る12歳頃までが

臨界期であることがほとんどらしい。

何らかの原因で、言語の臨界期に「普通の環境」に育たないと

―つまり言語に無縁かそれに近い環境で育つと―

言語能力は生涯にわたって未熟なままになってしまう。 

                                                            

ほとんどすべての脳機能には、その獲得・発達にとって

重要な期間が幼少期にあり、その期間での環境は生涯に

わたって脳機能に影響を及ぼすことになりうるらしく、

その”臨界期”が12歳くらいまでだという。

                                                       

ほんの少しだけ本から抜粋させてもらいましたが、

興味ある人はチェックしてみたらいいと思います。

 親からの愛情と指導を受けつつ、大人や子供同士で

多様な社会関係を繰り広げる環境(普通の環境)

だったか否かで、その後の一生を決定付けてしまう。   

ショッキングではあるけれども、幼少期の重要さが

よくわかる例も。

                                                              

世の中にいろんな人がいる、ということが

どこから出てきたのかがわかるような気がします。。

その人のことを知りたければ、幼い頃のことを聞けば

理解できるのかもしれませんね。

IQ(知能指数)とPQ(前頭連合野の脳力)の関係性も

興味深かった。

                                                             

                                                         

 

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心の理論

 最近気になるのが、モギケンこと茂木健一郎さん専門の

脳科学。

NHK番組「プロフェッショナル」を見てから、モギケンさんから

発せられる言葉に興味津々になった。

(なので茂木さんのブログ「クオリア日記」を拝読している)

                                                                

そこから派生して、たまたま見つけた 

『あぶない脳』  (澤口 俊之 著) 中で

非常に興味深いことが書かれていたし、納得した。

それは、前頭連合野教育こそが、社会性・人間性の

教育の基本であるべきで、戦後の、アメリカに習った

条件付けの教育である行動主義は、社会性の教育に

意味をなさない、というものだ。

                                                           

つまり、何か行動した直後にほめる、罰を与える、

などの、”飴と鞭” の手法が条件付けの教育。

(しかもなるべく「飴」にしてるのが戦後の教育・育児

の方法だったという)

                                                           

心理学用語に、条件付け(conditioning)というのがあるらしい。

これは、「ある行動を繰り返しさせるには、その行動の

直後に報酬(褒美)をあげればよく、逆に、ある行動を

止めさせるには、その直後に罰を与えればよい」という

原理・手法のこと。

                                                       

では前頭連合野とは?

自我であり「心の理論」、つまり、他者の心を理解

できる(推測できる、感情移入できる)能力が

心の理論であるという。

心の理論は前頭連合野のはたらきの一種である。

(上記の本より引用)

                                                            

人間には遺伝的に脳には情報が組み込まれているので

普通に生活していれば、この前頭連合野は発達していく

ということだが、今までの教育が何十年も何百年も

同じで正しい(はずなどないのだが)、という思い込みを、

疑う必要があるとやはり思わなければ危険だ。

                                                             

最近の若者がバスや電車の中で平気で化粧をしたり、

携帯で私生活を大声で話したり、学校の、条件付け教育

のなかでは ”いい子” なのに放課後は全く別人になる

そのいい子が急にキレるとか、そういう現象が起きているのは、

それが戦後の行動主義教育の結果なのだと納得した。

                                                           

かなしいかな、「心の理論」教育をされていない親や教師が

育てる子どもなので、その子どもたちの心の理論が

発達しにくいのも合点がいく。

そのことに気づき始めた大人たちがいることも確かで

この国は心の教育に早く切り替えを始めないと、少子化どころか、

社会性のある人間がいなくなる危機に直面するかもしれない。                                                       

                                                           

私はここまで生きてきて、心のやりとりこそ最も大事な

もの(教育)だとつくづく何度でも繰り返し思わされている。

(自分も「心の理論」欠落者だった)

                                                             

                                                          

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泣きのクオリア体験

 「泣く」 ということは、自分の脳内で処理しきれない

ものがあふれ出るということらしいが、

私は最近5年くらい、泣いていない。

(映画やテレビを見て、感動して泣くことは

もちろんあるけれど)

                                                               

それだけ昔より強くなったということなのか、精神的に

引き受け可能な範囲が広くなったということか、

脳内でなんとか解決しようと、私の脳は一所懸命に

働いているらしい。

とにかく、怒られて泣く、とか、怖くて泣くといったことが

ないことに気がついた。

まして、イヤミ、イヤがらせに泣くなんてことは

私にしてみれば、涙がもったいなくて出す気にもならない。

                                                           

3年前、アンコールワットの朝陽を見たときには、

自然と涙があふれてきた。

本物を前にして人間は無力だ。

あのカンボジアの自然、遺跡の佇まいの静謐さ。

初めて目の当たりにする、想像の域を超えたものに

対しては、脳内の情報処理が追いつかない。

                                                         

これから先、生きていくなかで、こういう感動の涙を

流して生きたい。

喜怒哀楽は必要不可欠だけど、”怒”で泣いたりしたくなはい。

子供の頃すぐよく泣いていた理由がわかった。

処理できないことのほうが多すぎるからだ。

                                                             

数年前の夏にさくらんぼ狩りに行った時のこと。

小学生の姪っ子が持ってきたちいさな人形を

預かり、ぶら下げてきた小さなポーチの口にポンと

入れたていた(つもり)のが、気がつけばなくなっていた。

                                                          

探すといえど、広い広いさくらんぼ農園。

辺りは草ぼうぼうの草原。

姪っ子の顔が急速に泣きの表情になりつつあった。

それから一昼夜、私の顔をじっとにらみながら

これ見よがしに、声を張り上げて泣くわ泣くわ、

これでもか、と泣く。

(注意力散漫な私を反省shock。許しておくれ、姪っ子よ)

                                                              

たいした大事にもしていないかったちっぽけな人形

ごときでも、なくなったとなれば、子供の所有欲は

最大値に跳ね上がり、失った事実に対して、

受け入れ不可能状態がしばらく続いた。

(そうやっていくつもの喪失感を経ておとなになるのだよ)

                                                          

ひとつの物であれほど泣けるなんて、私には郷愁に近い、

そして今では忘却の彼方へと置いてきた、

二度と取り戻すことのできない感情だっなあと、

しみじみ思い出してみた、あの夏の日の出来事。

                                                       

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腰の上のプニョ

 2月1日より、腰周りを覆う、ぷにょぷにょな脂肪を

落とす!と決意し、日々努力しました。

去年の春くらいから急におなか周りのぷにょぷにょを

感じるようになり、ややローライズのジーンズなどを

はくと、その上にどっかんとお肉が乗っかるという、

恐怖にみまわれるようになった。

                                                        

それまではどんなに甘いものを食べようと、

たいして運動などもしていなくても

脂肪がついて重い、なんて経験がなかったので、

見て見ぬふり、錯覚、幻覚、空耳・・・・と無理やり

自分を誤魔化しては来たものの、

いよいよ、何をする気も失せ気味、エネルギーの低下、

というその現実に直面して初めて、

甘いもの好きな食生活を改めなければ、と思ったのでしたweep

                                                           

で、約一週間ほどで、腰周り、太ももがすっきりしてきました。

何をやったかといいますと、

TVなど見ながら毎日朝と夜に、10分間ずつ、

腰をぐるぐるまわし(フラフープをまわしているかのように)、

湯船に浸かって、太ももと腰周りの脂肪をマッサージし、

搾り出すように刺激をあたえてみました。

                                                          

一週間で効果が出ました。

同時に、毎日食べていたチョコレートの量を減らし、

たんぱく質と野菜を意識して多く摂るようにし、

常温の水を朝、午前中、午後にコップ一杯ずつ

飲むようにしました。

                                                         

つまりは原因は結果をもたらす、ということに尽きます。                                                         

とり過ぎた余分なカロリー(私の場合、炭水化物)は

しっかりたまり、消費し、刺激を与えれば減る。

                                                          

思えば、20代中頃の独身の時には、

毎日人に見られる接客業だったので、毎晩のように、

下半身引き締め体操を取り入れ、太ももとお尻の脂肪

をもみ出すべくマッサージをし、刺激を与えて、

数年ぶりに会った友に、

 「足が細くなったね~!!」とほめられたものでした。

                                                         

でも、当然何もしなくて甘やかし、ほうっておけば

いずれまた元に戻るってこと。

体を鍛えたり、体脂肪と体重をコントロールすることは、

仕事や、やる気、物事の結果に、非常に大きな

影響をもたらすのではないだろうか、と思う。

(性格にもよるけれどね)

                                                       

あれ? 歩き方も変わってる。 姿勢も。

現実を少し変えるだけで、何だか、ぱーっと目の前が

広がったような気がしている。

”ハチドリの一滴” の精神で、やっていこうっと。

 

 

                                                              

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タイムトラベラー

 その人は、髪を結い、薄紅色の着物を纏い、

古めかしい顔つきをしていた。

どうやら、戦国時代か、江戸時代からタイムトリップ

してきた人のようだ。

そうかと思えば、こちらの日常に違和感無く溶け込み、

ともに生活をしているのだ。

                                                                  

若いのか年増なのか、たぶんそんなに年ではないであろう、

しかし、昔の人だ。

だとえ30そこそこでも、その昔は、30年も生きていれば

老け込み、老練したような雰囲気を持つのだろう。

こちらもそれを暗黙の了解にして、あれこれと、

食事の世話などをやいてもらっている。

                                                          

「こちら」は、家族が5、6人ほどの所帯のようで、

その人が、現代にそぐわないとんちんかんな食べ物を

用意しても、家族の構成員は文句も言わず、

その人の習わしにそってやっている。

その人は、働き者であった。

                                                        

ある時には、まるで現代人のように気さくに話し、振舞う。

で、こちらも調子に乗って、その人に幾度も問いかける。

(やっぱり現代の人なんだ。タイムトリップなんて

ありえない!)

 「あの、名前は?」

その人 「○○ ×△□」

(一度聞いて明らかに昔の人のだ、とわかる名前) 

                                                             

答えるその一声のたびに、うちとけていても、一線を

画した存在とわかる。

そして、こちらは、なぜか、がっかりと肩を落とす。

(いつかまた向こうの時代に戻ってしまうんだな・・・・)

                                                            

                                                            

 不思議な夢だった。

                                                                

                                                         

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平和

 去年初夏に何気なしに通りかかった東北電力で、

白洲次郎、白洲正子展をやっているのに偶然遭遇した。

そこで見た、白洲次郎さんがかかげた「夫婦の信条」

に、強く惹きつけられた。

                                                           

    夫婦の信条

その1. 一緒にいないこと

その2. 互いを信頼し、尊重して自立する

その3. 女房の前でもかっこつける

その4. 自分のスタイルは自分で決める

その5. 相手の弱さを知り、努力する

                                                                

どうだろう。 長年夫婦が連れ添い、うまくいく

秘訣ではないだろうか。

”同じ部屋に2人以上の人間がいると、殺し合いが始まる”

というセリフが映画「ミスト」の中にあった。

そうならないための努力が、人には必要なのだ。

                                                          

平和な時には努力ができる。

映画のように底知れない恐怖を目前にした時、

社会的秩序は機能しなくなり、理性を失い、人は、

思考の暴走が止まらない相手の存在を

消そうとする。 自分の身を守るために。                                                         

そういうふうにして戦争は始まるのだということが

よくわかる。

                                                          

経済の安定、衛生的であること、生活上の安心、

・・・・平和が、人々の心を支えるのだ。

                                                         

相手の弱さを知り、努力する。

                                                         

                                                         

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守破離(しゅはり)

 一年の始まりに、とても興味深い言葉に出会ったので、

受け売りですが、おおまかな内容をここで

引用させていただきたいと思います。

                                                          

 「守り尽くして 破るとも 離るるとても 本ぞ忘るな」

                                                            

 これは、守破離(しゅはり) といって、物事を

習得する段階を3つに分けて説いた言葉だそう。

 「守」とは、師匠の教えをよく聞き、型や作法、知識の

基本を学び取ること。

 「破」とは、一層の修練によって学び取ったものをより

高め、さらには自分なりの工夫をすること。

 「離」とは、師匠の教えを超え、自分独自のものを

作り上げること。

                                                                 

 一般的に、歳をとるごとに脳は老化すると思われており、

確かに単純な記憶力は17~18歳くらいをピークに

落ちていきます。

しかし逆に、年齢と共に伸びていく機能もあるそうです。

それが、結晶性知能(クリスタルインテリジェンス)と

統括的知能(白質)。

                                                       

脳科学では、この部分が《本当の意味での知恵や

知能の高さ》 に関わるのではないかと考えられて

いるそうです。

ただ、誰にでも起こる現象ではなく、40歳くらいまでに

人としての修行を積んできたというか、物事を大局的に

見るような発想が身についていると、それ以降、

本当の意味での知恵が生かされるのだそうです。

                                                             

人生に例えれば、40歳くらいまでは人としての基本と

応用力を学ぶ「守破」でしょう。

それからは、”私” というオリジナリティを創造していく

「離」のときです。

今までの経験を生かして何をしたいか、どんな ”私”

になっていきたいか――。

                                                            

なんとも深い学びの道だろうか。

この言葉に出会い、我が身を振り返るいい機会に

なりました。

すばらしい出会いに、感謝。

                                                       

                                                    

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ボーダーラインのこちら側より

 「神様が与えたもので 足りないものはなく、

神様が与えなかったもので、どうしても欲しがらなければ

いけないほどのものは何もない」

                                                          

以前に、”いい言葉ねっと” で配信されてきた言葉。

(配信メールを登録しているので毎日なにかの

言葉が配られる)

こうして時々見返してみては、

忘れていたハッとする言葉達が顔を出す。

                                                                  

そうだよなぁ。

ないもの、受けられなかったもの、足りないと思って

(思い込んで)求めてばかりでは、いけないいけない。

あるもの に目を向けてみる。

今あるもの、持っているもの。

与えてもらったもの、恩恵。

                                                      

そうすると、毎日日課のようにしていることが

奇跡的に思えてくるから不思議。

あたたかいお風呂に入ってすっきりすること。

食べるものがお店で売られ、それが買えること。

(だれかの手によって作られ供給をうけていること)

                                                        

そんな見逃しがちな日常を慈しみたくなるのは、

きっと加齢のせいだろう。

人生に区切りのボーダーラインがあるとすれば、

いまの私は明らかにそのラインを越えた側にいる。

日付変更線が目に見えないように、

いつのまにか、でも確実に越えている。

                                                         

                                                            

ところでスピリチュアリストの江原啓之さんによると、

2009年に必要なのは 「調和」。

色で言うと、グリーンカラーがそのエナジーをもたらすとのこと。

どんなことが起きようとも、柔軟な精神で、

本質を見失わない”軸” を持つよう心がけたい。

自分がやっていることのひとつ、ヨガをすることで

インナーマッスルが鍛えられていくように、

心のインナーマッスルを鍛え続けるのだ。

                                                        

 

                                       

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物をもらうということについて2

 ありがたく頂戴した物について、

もしも自分のなかで、? と思うなら、

それって、自分が思う自分のイメージと、

他人が思う自分のイメージが違うことによって起こる

 ?  ではないか。

                                                              

ジョハリの窓 を思い出す。

なので、自分というものの主張が必要以上に弱かったり、

本当は自分はこうなのに、そうでなく他人に理解されていたり、

うまくコミュニケーションがとれていないことの表れでは

ないだろうか。

                                                              

こうして書いていて頭の中が整理されてわかったのだが、

贈り物とはコミュニケーションのひとつなのだということ。

その人のことを互いによく知らないのに

贈ったり贈られたりするのは、不自然なんだなと。

ただし初対面ならちょっとした物のやりとりが

その後のコミュニケーションを円滑にする潤滑油になる。

                                                             

まわりをよく見渡してみればなるほど、

・コミュニケーション上手な人ほど贈られ物が多い。

(もちろん贈り手となっているからこそ、自分に

返ってくるという流れではあるだろうが)

・喜怒哀楽がちゃんとある。                                                            

・自分の感情コントロールができている

                                                         

贈り物をするとは、奥義が潜んでいる。

あさはかで経験不足の自分を嘆きたくなるsweat01                                                          

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物をもらうということについて

 だれかに物をさしあげるということ。

日頃からお世話になっていたりすると自然に

お返しとして何かの折に、お礼・感謝の気持ちを

形にして物をさしあげる。

                                                             

お土産などにしても、旅先あるいは出先で、その人のことを

思い出しながら選ぶので気持ちが伴う。

ただ、この ”気持ちが伴” わないと、意味を失ってしまう。

義理なのか、マナーなのか。

送り手、受け取り手の感情が微妙になる。

            

自分の場合はどうか。

反省してみる。

ケチだと思われるくらいならいっそのことマナーでも

義理でもなんでもいいから送る。

送らない(ケチ)、送る(押し付けがましい)、

どっちにしたって相手に何らかの感情が残るなら、

負の感情でなく、正の感情を残したい。

                                                               

やらなくて後悔するならやって後悔するほうがいい。

旅に出ることの多い私はいつもこのことで

頭を悩ませ、思考回路で路頭に迷い、ついには

直感からはずれたトンチンカンな買い物をしてしまう。

                                                                       

もっとスマートで相手の負担にならないような、

肩の力の抜けた買い物ができないものだろうか。

(これが今後の私の課題)

                                                        

私が受け手なら、相手が自分ごときのために、

時間をさいて自分のために選んでくれた物だと思うと、

嬉しいので、(金額の大小にまったく関係なく)

素直にその気持ちを受け取ることにしている。

                                                           

さしあたり、素直な喜怒哀楽を

心がけたい とおもう。                                                           

                                                 

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気持ちのよい新年に

 『気持ちの良い生活を作ろうと思ったら、

済んだことをくよくよせぬこと

めったに腹を立てぬこと

いつも現在(いま)を楽しむこと

とりわけ人を憎まぬこと

未来を神に まかせること』

                                                               

10年くらい前だろうか。

ある友人から教えてもらった言葉である。

(Sさん。もしこのブログを読んでくれていたなら

心当たりがあるでしょうか?!)

手帳に書き付けておいて、ふとした時に手にして

手帳を開く。

そんなことがよくある。

                                                         

なので、私は常に小さな手帳をバッグに持ち歩き、

美術館や博物館で、あるいは誰かの口にした

印象的な言葉、目にした言葉があると

その手帳に書き付ける。

                                                           

それを後になって読むのが楽しみだ。

書いたことさえ忘れていた言葉がいくつもあり、

またまた感慨と感動にふけるのである。

不思議なことに、ひらいて目についた言葉は

今の自分にぴったりだったりするし、

我が振り直す新鮮な気持ちにしてくれる。

                                                              

人生の半分まで生きてきて、こまごました持ち物の多さに

辟易している。

そう、私は「捨てられない」性分なのだ。

いつか使うだろう、とついついとってあるのはいいけれど、

どこに仕舞ったのかさっぱり覚えていないから

始末が悪い。

                                                         

ごくたまに気が向いて整理していると、

なつかしいものが出てくる出てくる。おぉflair

とたんに整理は中断、当時の思い出の中に舞い戻り、

なつかしさに浸ってしまうconfident

そこで、相棒が古本屋から調達してきた

 「捨てる!技術」  辰巳 渚 著  宝島社新書

にひっかかり、そろそろ読むこととしよう。

                                                        

                                                           

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いつものあたらしい年

 年末、年始にかけての時期が好きになれない。

盆、正月が関係ない仕事に就いていたのが長かったせいか、

この時期はいつもと変わりなく、制約されたルールのなかで

普通に働いていた方が

格段に落ち着く。

よのなかのせわしなさが、重だるくのしかかる。

                                                                

テレビでは人の噂話をとりあげては無理矢理に

話題を作り、大衆の優越感をあおる。                                                           

                                                            

はやく、はやく、静かな、なんでもないふつうの日に

なるのが待ち遠しい。

                                                              

さておいて、

またひとつ、年が明ける。

またひとつ、捨てるものができる。

たくさん練習して勉強して

同じ位置に戻ったときに見える景色の変容が、

見たい。

                                                           

                                                             

                                                               

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パワーの交感

 鼓童十二月新潟公演を観にいってきました。

2003年から、毎年観に行くようになって、はや5年。

公演を目にするたび、前回の舞台がついこの間のような

気がしてしょうがない。

実際は、一年365日が過ぎているのに。

                                                              

毎回の舞台のように、観衆は、

「今回もなにか面白いことをやってくれるだろう」という

期待をかけ、鼓童もその期待に応える。

プロだなと思う瞬間だ。

                                                             

やりたいと思うことと見てくれる人が見たいことは、

一致するわけではないと思う。

やるからには誰かが喜んでくれるものをやる。

その歓喜が、また自分にパワーを返してくれるのだと思う。

                                                              

好きなことを続けられる、ということは、

そういうことなのかと思う。

                                                              

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失いたくないもの

冒険家であり、プロスキーヤーである三浦雄一郎さんの言葉。

 「長生きを目的にしない。 

健康だけを目的にしない。

何のために長生きをしたいのか、健康の先に何を見たいのか、

その目的は失いたくありません。」

                                                            

    

私たちは一般的に、健康的にいつまでも若く生きたい、

と無意識のうちに毎日を過ごし、一ヶ月を過ごし、

そして一年が過ぎてしまうことでしょう。

気がつけばもうはや年末、もうはや夏休み、等。。。

もうはや、○○歳!

                                                          

生きる→生活する→お金を稼ぐ→生活する

→お金を稼ぐ・・・・・・・・・・・ 結果的に生きている、

になっていないだろうか? 

                                                           

                                                         

どう生きるかは、どう死ぬかだと常々私は思う。

つい、まだまだずーっと生きるつもりで、先々を計算してしまう

けれども、そのとき何を目的に生きているかを

いつのまにか考えなくなっている。

                                                        

20代前半の頃、私は、ある素敵な女性に

「○○(私の名前)さんは、人生に対して積極的ですね!」

と言われた。

今は、、、積極的よりも、受け身になっていることの方が

多くなっているではないか。 なんということだ。

これが ”老い”への追い風か。。。run

                                                             

目的を達成するために、健康管理に気を付ける。

そういう積極性を、私はうしないたくありません。

                                                          

いいタイミングで、いい言葉に出会いました。

いつもハッとさせてくれるメール便のおたよりを

寄せて下さいます、某酒造会社の女将さん、

有難うございます。

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個人の価値観

 「私には生きる目的がありません」

という親には子供のモデルとなることはできないだろう。

個人として価値観を持たない親が、子供に何を

示せるだろうか。

親も家庭の他に、外部に夢中になれるものを持つこと。

社会的に、趣味に。 家族以外の外部を持つ。

                                                        

日本は高度経済成長を終えて成熟化社会を迎え、

それまでのように、いい学校に入っていい会社に

就職し、経済社会の発展に貢献するという図式が

終わってしまった現在、

個人の価値観を持って新しい(これまでにはない)

理念で生きていかないとならない時代になった。

                                                                

それを示せる大人であることが出来るかどうか。

最も真剣に考えなければならない事

ではないだろうか。

幼児期や小学生の時期に、母子カプセルから

切断させるものを、父親の役割も含め外部の関わりを

入れないと思春期にはもう手遅れになる。

                                                       

 「最前線」  村上 龍 著書

を読んで今更ながら将来の日本に、

強い危機感を覚える。

子を育てるとは、なんと難しいものか。

どんな人にも言えることだが、生きる上で

自分個人の価値観を持つことは重要で、

変化していく環境に対応して、本を読んだり、

錯綜し混乱する情報を、見極める”目”

を、日々研ぎ澄ませていたいものだ。

                                                        

自分を支えてくれるものは、そうして積み重ねてきた

過去の自分であり、今後を支えていくものは

今の自分なのだろう。

                                                          

 

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この痛くて辛い世の中を

 北京オリンピックの終わりとともに

晩夏がやって来ましたね。

4年かけてやってきたことをこの一瞬に集約。

努力と適応能力は、必ずその人に必要な結果を

もたらしてくれた、と思う。

                                                             

2012年のロンドン開催のオリンピックは、

できるならテレビではなく、ぜひ生で見てみたい。

夏の終わりの静けさが妙に染み入るこの頃。

この痛くて辛い世の中を

自分色で、面白可笑しく生きていくのだ。

                                                                  

                               

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ケア

 ケアとは、

「そのものが自然であるがままの状態でいるように

寄り添う在り方」

       田口ランディ   

    ― 鳥はみずからの力だけでは飛べない ― より 

                                                              

                  

「光(目的)が見えないときは、楽しいことを

やるようにしよう。

自分で楽しめないようなものが誰かの役に

立つはずがない」

       キャロル・アドリエンヌ  

       ― 人生の意味 ― より   

                                                             

 知り合いの、ある婦人(50代)は転勤族で、

やっとふるさとの地に戻ってきた矢先に、ご両親が

彼女を待っていたかのように要介護になったそうだ。

お母さんは入院し、認知症が発症した一人住まいの

お父さんを、四六時中介護に費やす毎日となった。

                                                              

しかもお父さんは、彼女のことを 「せがれ」 だと

思っているという。 娘だという認識はもうない。

テレビを見て 「娘って、いいものらしいなぁ」と、献身的に

身のまわりの面倒を引き受けている娘に向かって

おっしゃるそうである。

                                                              

しかし、彼女は明るかった。

もともとネアカの性格らしく、疲れてはいるものの、

やることなすことすべてを笑い飛ばし、”明るい介護生活” 

を送っているようである。

                                                                   

なんとも粋な話である。

やがては自分がその立場になる、その姿は将来の

自分である、と捉えているという。

人生の先輩の姿勢に学ぶべきもの、多し。

すばらしき仲間かな。

合掌。

                                                         

                                                   

 

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青い鳥

 知っていましたか。

日本全国の小中学校、高校の教室の黒板はすべて、

西にあるって。

そして必ず左から南の明るい陽を受けて授業するように、

南側は窓側。 校庭もだいたい南側に作られている

のだそう。                                                                

                                                          

 「青い鳥」  著:重松 清  新潮社   より

 青い鳥

 小学校高学年から中学の多感な、子供でもなく

大人でもない時期を過ごす人間を、一人の先生を通して

(一人の先生を軸にして)

描き出した作品。重松ワールドは圧巻。

中学生。

人間が誰でも抱える孤独を生まれて始めて感じる時期。

                                                           

たいせつなこと。

そばにいること。

ひとりぼっちにしないこと。

                                                          

吃音のその先生は、たいせつなことしかしゃべらない。

「ほんとうにたいせつなことはしゃべらなくてはならない」

「本気で言ったことは、本気で聞くのがあたりまえだ」 

「いろんな先生がいていい。いろんな生徒がいるのだから」

                                                           

神さまが遣いによこした伝達人かのよう。

寄りそい、そばにいて、心をひとりぼっちにさせない。

タイトルになった「青い鳥」の編で

生徒達の、なぜそんなことをするのか、どうしてなのか、

の問いに、”責任だ” の一言におさめられた力。

                                                            

自分の家族の話をまったくしないところがいいと思った。

その人の存在だけで、”間に合う”。                                                            

                                                      

この本を読んだ人、

(とくに中学生の子を持つ親の人)

『間に合ってよかった。』                                                               

                                                                    

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気づきと傷つき

 印象に残った本やいい映画を人に紹介するとき、

その相手の心の成長度合いを見極めなければ

間違った選択になることもある。

受け容れることのできる段階にあるのか、

全く違った価値観を持っている人ではないか。

                                                              

自分にとって、いい言葉だと思ったり感銘を受けた行動は

その時の自分の心の成長のレベルに合っていた

ということでもあり、タイミングが良かったということ。

また、その人の自尊心を傷つけるような物言いならば

逆効果を招く。

                                                             

正しいと思ったことを主張するときには、誰か(の自尊心)を

傷つけてはいないか、その人の精神の状態が

受け入れられるような言い方を選ぶことが出来るかで、

その後が決まるような気がする。

                                                           

気がついていないものを拒否することは困難であるという。

長い年月をかけて無意識に身についてしまっていることを、

”気づく” ということで大きく人生が変わる。

無意識の領域に光をあてて引き出してやることが

自分で自分を救う道となる。

                                                               

                                                                

自分で自分を励ますことができないと

人に対して(子供や自分の親にも)何ができよう。

自己啓発的な本でも小説でもエッセイでも、本を読むと、

その作業が手っ取り早くできる。

                                                       

参照: 「毒になる親」 スーザン・フォワード

                                                         

                                                         

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愛情のリレー

 親が愛情を表現し伝え、子が愛情を受け取ることが

できる感受性が育つこと、

幼少期にそれが出来ているか否かで、その後の

人生が多きく左右されると思う。

                                                          

秋葉原事件起こした犯人の根源には、

それが不足していたか、なかったか、のだと想像できる。

子供は誰でも乳幼児期はかわいい。

そのかわいい盛りが実は決定的な、人生の分かれ道

だと気づいて子育てをしている人は

どのくらいいるのだろう、と疑ってしまいたくなる。

                                                                

かなしいかな、今回のこの残虐極まりない事件で

考えることになった親たち、成人した子供たちは

おそらく随分いるだろうと察する。

事が起きた後に気づかされ、見直されることが多い。

幼少時期の家庭環境と、その時の親の心理状態は

のちになって子供に表れる。

                                                                

それが、その人がその人生で背負い、学ぶべき

試練といえるのかもしれない。

人は誰でも、その人に必要でふさわしい試練を

背負っているのだとおもう。

だから、誰かをうらやんだり、妬んだり、さげすんだりを

することなど何の意味もない。

                                                           

愛情不足が、こころの遣り取りの不足が

とりかえしのつかない惨事につながっている。

親がどのような心理状態で自分が育てられたのか、

どんな環境を与えられたのかを自覚するのに

役立つ本は沢山出版されている。

                                                                

何らかの理由で愛情を受けられなかった人は、

他人事とは思わずに少しでも早く気づいたら

世の中は少しずつ変化していくのではないだろうか。

この世で起こる全てのことは繋がっているのだから。

ひとつ変化すると別のひとつが変化していく。。。

                                                      

                                                          

                                                           

                                                                  

                                                             

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そう

 沿う。 添う。 副う。

すべて、「そう 」と読むが、その「そう」について、

昨日ふと合わせたテレビチャンネルに映った人、

樹木希林さんが言った言葉が、稲妻にうたれたように

印象に残り、忘れられない。

                                                                 

出演している「歩いても歩いても」という映画の封切を前に、

NHKのインタビュー形式の番組に出演されていた。

別居30年という結婚生活のなかで、乳がん、

片方の目の失明、自身にふりかかったことを省察し

語っていた言葉、ひとつひとつが琴線に響く。

                                                             

自身が言うには、自分は今まで好き放題、気ままに

(娘さんが前に言っていた”自由人”ということか・・・)

やってきて、何かに誰かに沿ってやったことがなかった、

しかしここにきていま、夫で ”そう”をやってみようと思った、

という。

(その夫が、そのうち樹木さんに敬意を示し、変わっていった

ことは言うまでもない)                                                            

                                                            

私はこのときの ”そう” は、沿う、添う、副う  の

どれでもあり、また、どれでもない気がした。

”そう” のニュアンスをすべて内包した懐の奥行きを

感じたのだ。

今回の映画では、ただ自分を真っ白にして、監督に

そってみたと。 作品がいいとそれだけで、いいものになる。

                                                           

その器、型にはまる。また型をはずすとどんな型にも

はまることができる。

以前、鼓童とのコラボレーションで、坂東玉三郎さんが

語っていたことに通じていて、はっとした。

                                                                

日常のなにげない、ふとした瞬間にヒントがおりてくる。

樹木希林さんの断面をほんのすこーしだけ切り取って

見せてもらえただけで、人生がガラリと変わることもある。

                                                        

いつも思うのは、インタビュアーの力量だ。

相手に敬意を払い、決して不快感を与えることなく

相手を引き出す仕事に敬服する。

                                                          

                                                       

                                                      

                                                             

 

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幼稚園からはじまっている

 本日4回目の更新。

私の場合、日ごろ感じていることを言葉にするには、

暫くの間、寝かせておく必要があるみたいで、

何日か置いとくと堰をきって出てくるようです。

                                                        

喫煙。

TASPOに切り替わった自動販売機も増加しているが、

未成年者にたばこを買わせない、吸わせない、って姿勢を

なんとかして形に表わそうとしている社会だけれど、

吸いたい奴ら(口が悪いbleah)にゃ吸わせておきゃいい、

と私は個人的に思う。

                                                          

学校で吸っていないだけで、陰で、どこかで吸ってるのなら、

それでなにかしらの不満やストレスを発散したり、

外見だけかっこうをつけたいと気取っているくらい、

いいではないか。

喫煙を繰り返して、20年後、30年後に肺に支障をきたす

ようなことになっても、自業自得、自己管理の責任。

                                                                 

禁止を強制すると反発したくなるのも世の常。

愛情を充分に受けて育った者が、脳に支障をきたすくらい

喫煙するとは考えられないし、禁止するなら

もっと早くに、幼少期になんとかしなければならないのでは。

情操教育不足の尻拭いと思えてしまうのは、

私だけでしょうか。

                                                          

幼稚園児や小学生を見ると、こころさわがしくなる

私である。

              

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100%はない

 何かやるにしても、上手く完全無欠にやれることなど

ないということに気が付いたのは、恥ずかしながら

つい最近。

コップの水にたとえるなら、いっぱいに汲んでしまうと

こぼれるしかない。

まかり間違うと、元あったよりもわるくなる。

七分(ななぶ)から八分(はちぶ)くらいにしておく。

                                                                   

アソびの部分、余裕の部分を残しておかないと

どうも塩梅がよくない。

最初から、”出来よう” としないほうがいいこともある。

10回やって初めて出来るようになったっていい。

1回やって失敗してもすぐに評価しないこと。

初心者・初歩者にはそれが大事であると思う。

                                                              

練習を積み重ねて、本番一発勝負でメダルの色が決まる

というような勝負を除いて、日常のほとんどの場合は

一発で決まることはない。

7割か8割を得てよし、として、残りの3割から2割は

ほかのことで穴埋めすると、精神的な安定感も違う。

100%を求めない訓練をする。

                                                           

封筒には必ず ”のりしろ” があるもの。

足りない、もしくははみ出た部分には意味が宿っている。

                                                            

長い目で見る。 俯瞰図を見るように、生活も

できないものだろうか、と、

近頃考える。

ただ単に老化してきただけかもしれないが。

                                                        

以前見た、NHK放送のイチローのインタヴューで、

「僕は満足しますよ。すぐ満足する。」

と言っていたのが印象的。

満足するから、次に切り替えが驚くほど早い。

そういうことは、あるとおもう。

                        

                                    

100回やっても1000回やっても完成はないヨガ(と思う)。

長い目でみてくれているヨガの先生には感謝confident

                                                            

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無知であることの危機

 地球環境に配慮する運動がやっとあたりまえに

なってきて、TVにもよくエコをテーマに取り上げている

内容が増えた。

自分がご飯を食べているとき、のんびりTVを見ているとき、

いまこの瞬間に世界で何が起きているかを想像してみると

やはりすべてがつながっていると思うに至る。

                                                                       

燃料など、欲しいだけ使うことが当たり前ではなくなり、

そのことで流通をはじめあらゆる業界に影響が出る。

近代化を終えた先進国の国々だけがさらにどんどん

ガソリン、油、使い捨ての物、大量の消費をすることが

困難を極める。

                                                           

インド、中国などもこの先あと20年もすれば発展を遂げ、

そうなれば日本もアメリカも事態は変わるのだろう思う。

20年前と今はそう変わっていないけれど、

今と20年後は激変しているかもしれない。

                                                           

”基本” は変わらない。

”基準” は変わる。

この変化に対応していくにはやはり、無知では無理

なのだろうと思う。

                                                        

 

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リアルタイム

 インターネットが一般的になりパソコンはいまや

一人一台所持の時代。

私もインターネットの恩恵を受けて10年来、それこそ

24時間、広辞苑を引くように使っているし、生活に

無くてはならないものとなっている。

インターネット依存度はほとんど100%に近い。

(イゾン ということばは苦手だが)

                                                            

たとえば料理のレシピにしても、”ニラ” と入力するだけで、

ニラを使った料理の仕方があっという間にヒットする。

解らない言葉使いや単語に遭遇したときも、この検索で

すぐに解決。

国語辞典を引く手間の分多くの言葉を検索できるし

世界のニュースもリアルタイムで入手できる。

                            

                           

なによりも自分から進んで調べる、ということを

学習している。

それによって受ける感動や喜びも大きい。                                    

                                                              

買物するにもネットからオーダーすることが多いし、

(店舗へ足を運んで買う前にその商品の情報を

チェックしておくことも出来る)

今では同じ商品でもどこのショップが一番送料が安いか、

どんな買い方が効率良いかを検索する習慣がついている。

 

                                     

知らない、わからない、では生き難い現代。

経済のしくみを知らないで悪徳商法にひっかかる人、

その無知を利用する人間というのは必ず出てくるから、

だまされないために日々、知識を仕入れるのは

現代社会では必須かもしれない。                                                      

                                                             

そこにあるのに調べ方を知らないだけの人が

どれだけ多くいることか。

     

私は経済学を中学・高校で必須科目にすべきだと思う。 

昔は主婦や老人は世の中の情報を知らなくても

生きていけた。 

そんなのどかな社会は終わった。

                                                         

有効なメールメディア(だと思って)読んでいるものがある。

                                                          

 JMM [Japan Mail Media]

作家の村上龍氏が編集長として発行する

無料のメールマガジン。

村上龍氏が専門家に質問を投げかける
「金融経済の専門家たちにきく」のほか、世界各地の
寄稿家ネットワークから寄せられる海外レポート
を読むことが出来る。
                                                           

                         

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古い手紙

 なつかしい人に会った。 

引き出しの奥の箱から出てきた古い手紙の束。

当時の職場を退職するときに、後輩、先輩からもらったもの、

年に1度くらいに出された友人からのもの。

その文字の中には当時の私がいた。

その人から見た、その時の私。

 

あれから13年ほど。

手紙の中にはその当時の人間が生きている。

幽体離脱したように、

生き生きとそこにいる。

                                                           

同じ環境で日々を共有していた人たちがいまはもう

それぞれの別の環境で、

牽引された運のもとに生きているということを、

感動を持って思い返す。

年々、いや、ある年になると唐突に押し寄せる。

                                                            

子供の頃の古い写真や古い手紙を見る時の気持ちが

以前とは明らかに違ってきている。

そういえば、今月の初めに行った上海では

”老”という文字をよく目にした。

老舗の、とか、積み重ねた歴史に敬意を

表わしているような ”老” を感じた。

                                                         

古い手紙を開けるような

中国への渡航。

手紙は ”老” を思わせる。

                                                          

                                                              

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見えない敵との戦い

 「ピシューッ」 「ドーン」 「ガンガンガンガン」

大きな壁に貼られている宣伝のスクリーンに向かって、

声帯模写をしながらシャドーボクシングさながらに

戦っている小学生の男の子がいた。

それを見た相方は、「見えない敵と戦っているんだよ」

                                                              

自分にもあったらしい。

”見えない敵”と戦っていた少年時代が。

そういえば私の小学生時代にも、同じクラスの男子は

声帯模写をしながら、プラモデルの戦闘機を操るフリで、

敵と戦うようなパフォーマンスをよく見せていた。

                          

いったい何をやってるんだろう、と不思議だった。

その年頃は、どこかしら湧いてくるものに支配され、

本能のまま気の向くまま、不思議なことを

やっていたような気がする。                                                         

                                

私はといえば今も常に、”見えない敵” と戦っている。

子供の頃、自分にだけ特別なことが起こる、と

信じていた。

給食時間、片づけの時に空の牛乳瓶を落として

割ってしまうのではないだろうか、とか、

集団健康診断の時に、自分だけ心臓の音が変

なのではないか、とか。

                                                             

いつも最悪の事態を想像しては結果的に取り越し苦労で、

平凡な自分の事態を思い知らされてはがっかりする。

まるで大きな波にさらわれた後に、ひとりその場に

取り残されたような寂しさ。

                                                                      

大人になるということは、この、

「自分にだけ特別なことが起こる」妄想から

ずいぶん解放されることなのかもしれない。

それでいくらか楽になり、いくつかの不安事も

うまくやり過ごせる方法を見つけられるようになる。

                                                           

 小川 洋子著 『博士の本棚』 所収の

「行列からはみ出す」の節を読んで、合点がいった。

                                                                  

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きちんと生きている人

 職場の狭いお客様ロビーに定期的に季節のお花を

活けに来てくれる華道の先生がいる。

その現れ方が、見事である。

実にさりげなく、風のように現れ、活け終わると

風のように去って行く。

                                                              

愛想よく挨拶を交わすでもなく、決して相手に不快感を

与えるわけでもなく、なんとも曖昧で不思議な存在感。

(年齢は70代後半だろうか)                                                          

あの感じは誰にでも出せない。

堂々としていて、気品と年輪を感じさせる立ち居振る舞いである。

 

相手にいやな感じを与えないことは、他者と

コミュニケーションする上で大切なことだ。

意図的に愛想良くして見せても、人間性が曇っていれば

それは望む望まざるに関わらず伝わってしまうもの。                                                          

あの先生は、いやな人ではないのだろう。

(”いやな人” とは、それとわかっていてわざとごねたり、

相手を困らせるのが目的で過剰な自己主張をする人、

というイメージ)

                                                     

                                                               

きちんと生きている感じがする。

きちんと生きている人、といって思い浮かぶのは

決まっていつも、女優の岸惠子さんである。

                                                           

                                                         

      

                                                                     

                                                      

                                                            

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ソノトキ

そのとき。

適切な時に、適切な人へ、

適切な(あるいは意外な)言葉で、

適切なことを引き合いに出せるかどうか。

人はだれも、人格以上の仕事はできない。

                                                            

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モラル

 仕事帰りに図書館へ寄り、予約本を受け取って

出ようとしたとき、出口付近にある新聞・雑誌閲覧コーナー

の長いすで、小学生男子がDSを始めた。

(音を出したまま)

母親はそのあたりで本を探している様子。

                                                          

すかさず振り返り、「ここは図書館。静かに本を読む

場所ですっ!」と、その子どもに言いたかった。

が、言えなかった。

すぐそばにある貸し出しカウンターに職員がいたので

当然注意するだろうと、その場を立ち去ってしまった。

                                                   

 

その後、職員か母親が注意したと思うが(そう思いたい)

その場で言えなかった自分を恥じた。

心から悔やんでいる。

親のモラルやしつけのマズさに文句を言うよりも、

公共のルールさえ身についていない小学生を注意する

のは大人の役割だ。

                                                           

なのにすぐに注意できなかった。

人気ドラマだった「斉藤さん」 をやるには覚悟がいる。

筋の通った考えを常日頃持つこと。

子どもたちの将来を考えると決して見過ごせない光景

だったはずだ。

                                                                   

少子高齢化が加速する先進国(近代化を終えた国、という

言い方をするそうだ)は、高度経済成長期の時のように

いい学校を受験・卒業し、いい会社に入り、高給取りの人と

結婚して安定を求める、という図式は成立しない現代社会。

                                                       

何度も繰り返して書いているが、マスコミや政治家は

公で誰も言わない、非常に重要なこと。

もはや個人で必要な情報を得、自分の能力を上げていき、

女性でも経済的、精神的に自立を獲得することが重要に

なっている。

今後はそうやって努力し続けた者だけが成功していく

世の中になるかもしれない。                                                        

    

                                                     

近代化前と現在の消費社会では明らかに、若者の質が違う。

それは自分も含めモデルとなる大人が身近にいないに等しい

のだろうと思うが、どうだろう。

他人と自分との境目がわからない、接し方がわからない、

のは、そもそも自分を好きでないからでなないだろうか。

                                                             

自分で自分を好きになれると、他人にも尊敬の念を持てる。

みんなで同じ目標に向かって誰とでも仲良く、の時代は

終わった。

人はさまざま、十人十色、誰とでも仲良くしようと思わず、

他者を認めることができる人になる。

重要だと思いませんか。

                                                        

                                                       

                                                          

               

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代理的行動

 7年前、札幌在住の頃、カラー・コーディネーター

養成スクールに通っていた。

昨夜ふと、ドレッサーの下に埋もれていた書類を整理

していたらその時のテキストや関連資料が出てきた。

                                                                 

上級コースでは(初級・中級・上級を段階的に受講した)

心理学も少し学んだので、ストレスTESTなどの資料を

見返してみたりして、あの頃の覇気を思い出した。

                                                         

なぜカラーなのか、といわれると、

魂の深層から湧き出る、とでも言おうか、やって当然

というか、とにかく色に興味を惹かれてしょうがない。

気になることはすべて色につながっていた。

                                                               

7年ぶりに、お世話になったあのカラーの先生は

どうしているかな、と思い立って、HPやブログは当然

立ち上げているだろうとチェックしたら、ありました。

(トゥルー・カラーズ:札幌在住の方で興味のある方、

ピンときた方はチェックeyeしてみて下さい) 

                                                             

上級コースの卒業まであと少し、というところで

夫の転勤が急遽決まり、卒業にまで至ることが

出来なかったのだけれど、受講している間じゅうは、

幸福感に満たされていた。

                                                                    

職業、年齢もさまざまな人たちが、同じ興味を共有

できる環境が心地好かったけれど、

才能もセンスもある人って世の中にはたくさんいる!と、

自分の凡庸さに愕然とした。

                                                            

札幌を離れてからも、新潟で何人かの人に

カラー診断をさせてもらったりして練習をしていた。

(120色のドレープ(布)を一枚ずつ顔の近くにあてて

その人に似合う色を見つける、というもの)

                                    

しばらくそんな実技をしなくなって、全然関係のないことを

しているうちにまたたどり着いてしまう場所。

それが自分の根本的に好きなこと、なのだろう。

原石も磨かなければそのままだ。

                                                           

振幅は広がったものの、今現在は、ステンドグラスに

代わりを求めているに過ぎないのかもしれない。

回り道、代理的行動。

まさに心理学そのもの。

                                                               

                                                              

                                                       

                    

                                                                    

                                                             

 

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アシュタンガヨガの効果

 最近、お昼にきちんとおなかが空き、夕方きちんと

おなかが空き、朝もきちんと食べる、という習慣に

なっている。

今まではお昼はお菓子や菓子パンでごまかすことも

多かったし、おなかが空いたという感覚があまり

なかったことも長く続いた。

                                                            

しかしこの頃は食事に甘いものやたんぱく質のない、

菓子類を摂ることは考えられなくなってきた。

体が変わってきた、ということか。

アシュタンガヨガrunをやり始めて2年半。

体をひねったり手足を伸ばしたり、ひっくり返ったり、

2年半やっているうちに体の中も変化した?

                                                              

ごく若い時と違って、空腹を満たすだけの食事は

体が要求しなくなっているのだろうか。

それとも個人的な問題か。

ちゃんと栄養素を考えた食事を体が要求している。

                                                            

ヨガをやる人は菜食主義の人も多いが、

そういえば、ヨガの先生が、「スナック菓子を食べると体が

硬くなる」と言っていたっけ。

ヨガクラスの前の日に食べたものによって体の柔らかさが

違うので、毎回毎回、調子が全然違うのは事実。

                                                          

アシュタンガヨガ(パワー系なのだ)で体を50分間

びっちり動かしその後10分間、死体のように脱力して

横たわる、を繰り返していた効果がやっと出てきた。

(と思っていいのかどうかsandclock

初めてやったときはキツくて死ぬかと思ったもんねーsad

                                                              

普段、きつくてつらいことがあっても、ヨガのキツさからみると

たいしたことない!って思える。

飽きっぽい私が長く続けたいと思う、数少ないもののひとつ。

                                                             

 

                                                             

                                                               

 

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十人十色占い

 私の誕生日に、馴染みの保険の外交員さんがくれた、

占い。

いったいどこの誰が占ったのかはどこにも書いていないのが

怪しい。

良いことしか書かれていないし、あまりに信憑性が薄くて

可笑しかったので載せてみます。

                                                          

”お誕生日編”

発見!あなたってこんな人

 社交性に富み、明るく穏やか。信頼できる人柄で、多くの

人から慕われているようだ。この恵まれた人間性が

金銭運を呼び込み、有形・無形の豊かさを得られるはず。

あなたの守護星は、金色の羊を描いた、おひつじ座の

2等星「ハマル」。

優しく輝くこの星のように、周囲に優しさと安心感を

与えることがあなたの役割。

豊かさはその対価なのだ。

<幸せへのアドバイス>

◆友人からの情報に成功のヒントが

◆気持ちのゆとりが、幸せな毎日の鍵に

                                                            

だってー。 ちょっと笑えますね。

保険に加入してもらうためにはやはり、良いことしか

言わないものですからねぇ。

当然のことながら、一読してすぐにリサイクルペーパーへ。

同じ年、同じ日に生まれた人が皆同じ運勢とは

思えないし、占いは信じない方です。

                                                           

十人十色。

ひとりひとり皆違うので、人を例にとって、

「あの人はああだったから、私の時もこうなる」

とは限らない。

生き方や体験にサンプルなどはないでしょ。

                                                       

                                                           

人はそれぞれ、持って生まれた資質というのは

あると思うので、それを最大限に生かすことを、

試行錯誤していきたい。

あ゛ーっ! ただ、「気持ちのゆとりが幸せな毎日の鍵に」

は当たってる!

気持ちにゆとりがないときに、いつも大ゲンカしてます。

                                                          

                                                         

                                                       

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淘汰

 読了!

「人生の教科書 『よのなかのルール』」

  宮台 真司    藤原 和博   ちくま文庫

                                                               

今の時代を生きる、老若男女におすすめしたい本だ。

ものを作って豊かになるという達成を果たしてしまった近代化社会

(~70年代)から、消費中心の現代の成熟社会を生きるヒント、

いえ、バイブルといえる内容。 

このような充実した内容を、わずか950円で買える文庫。

(私は図書館で予約待ちして借りた)

                                                          

本は読まなくても生きてはいける。

しかし、人生、同じ期間を生きるなら本によってその

人生の内実が全く違うものに変わる。

本というのは、安価で誰にでもどこでも手に入れることのできる

すばらしいものだ、と思う。

過去の偉人が書いた書物は、数十年、数百年前を

生きた人の思想を知ることができる。

本の上で、その人の精神と、今を生きる自分の精神の出会いを

果たしているのだ。

                                                          

                                                            

『よのなかのルール』の中で著者が言うように、

過去の近代化社会の ”みんなで一丸になり目標に向かって

がんばろう” という高度経済成長期は終わった。

20年前から成熟化を迎えた今の日本の社会で、

近代化社会と同じ教育のままだから、若者は生きる意味を失い、

だれもが何をやっていいかわからず病んでいる。

                                                             

                                                           

社会が変わり、環境も変わっていくのに教育だけが

同じだから歪が生じてくるのは当然の成り行きだ。

それをこの本は教えてくれる。

社会と自分は切り離して生きることは不可能だ。

社会の中の自分であって、はじめて自分を認識できるのだ。    

                               

                           

昔の ”世間” とは、他人から見たもの。

(世間体が悪い とか、世間に顔向けできない 等の世間)

この著者が考える ”よのなか” とは、自分の内側から見た

世間だ。 これからはこの ”よのなか” が重要だ。

”みんな仲良く一緒に” の思想教育こそ殺人犯を生む

のだという。 

ショッキングで目から鱗の内容だ。

                                                          

価値観の多様化した現代の成熟化社会では

この ”みんな仲良く” ではもう的を射ることは不可能だ。

他人の考えと自分の考えは違う。

この当たり前を、認め合い、共存していくために

どうしたらよりよい方法が得られるのかが書かれている。

                                                     

                                                           

                                                         

SMAPやV6がなぜ不動の人気を集めているのか。

(彼らはちょっと三枚目でおもしろくて、コミュニケーション上手

なのだ)

                                                             

う~ん。 とにかく、読む前と読んだ後の自分がちがう

ということがわかる。

星五つ☆☆☆☆☆!

                                                           

                                                      

                                                                 

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虫の知らせ

 新潟に来てから(はや6年と4ヶ月・・・)いつも利用する

クリーニング店がある。

個人酒店が兼業しているクリーニング部門(?)で、

行くたびにそこの店主である婦人(推定60代)と、何気ない

世間話になる。長いときには1時間も話し込んだことも。

                                                           

 

ずいぶん久しぶりで今日はそのクリーニング店へ行った。                                                                     

(前回行ったのは雪の降る前だから10月頃?)

開口一番、店主は、

「今日の朝ね、犬の散歩をしていて前を紺色の車が

通り過ぎて行ったの。それでなんとなく、

『○○(私の名)さん お元気かな』 と、ふと思ったのよ!」

(いつもお店の前に車を乗り付けるので、うちの車が紺色

(バイオレットブルー)だと覚えていて)

                                                     

デ・ジャ・ブ ならぬ、まさに、虫のインフォメーション(知らせ)!

しばらく会わないのになぜ、今日?!

不思議なこともあるもんですねェflair

ほんとに。

ここの店主には、新潟に来てからずっとお世話になっている。

住み始めたばかりで、近辺事情に不慣れな頃、偶然お店の前を

通りかかると目に留まったのが、クリーニングのセールの看板。

(おおっ、ここに安いクリーニング店があった!)

近づいてよく見ていると、店主がチラシを持って

中から出てきてくれた。

                                                             

それからはクリーニングを出すときはこのお店に行くようになった。

行くたびに、ちょっとしたお話や情報交換をして帰ってくる。

まだ知り合いも友達も誰もいなかった頃、

この店主は私の唯一の、貴重な、お話相手でもあった。

(正確には、若輩者の私を受けとめてくれた存在であった)

話し込むたび、懐の深さや、粋な考え、60代のかわいらしさ、

視野の広さ、自身の意思を表現する誠実さに打たれた。

                                                         

                                                         

つかず離れず。

そのスタンスが、ほど好い関係性を生んだ。

個人商店 店主と一お客の関係。

それ以上でもなく、それ以下でもない。

私にとって、とても心地の好い居場所でもある。

                                                           

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欠けたることのみこそ侍(はべ)れ

 非のうちどころがないと、かえって居心地が悪いこともある。

(そうなるとおもしろいもので、”非”を探そうとする)

しかし、これがホテルの部屋だと、

「いい仕事するねぇ!」と、親指をつきあげたくなるのだが。

                                                                

自分にどこか自信がないと、相手に対して優越感を

持とうとして自己満足の獲得に励もうとする。                                                            

それで結果的に相手へ与えているのは疲弊感だったりする。

                                                                  

                                    

そういえば、「未完の完」 で、以前読んだ「徒然草」の

一節にあったことを思い出したので、以下引用。

                                                         

『「薄絹(うすぎぬ)で装丁した本の表紙は、痛みが早くて困る」と、

嘆く人がいた。それに対して、友人の頓阿(とんあ)が、

「薄絹の表紙は、上下の縁がすり切れて、ほつれたほうが、

また、巻物の螺鈿(らでん)の軸は、ちりばめた貝が落ちた

後のほうが、深い味わいが出るものだ」と答えたのには、

感心させられ、彼を改めて見直した。

 何冊かをひとまとめにして一部とする草子の場合、各冊の

体裁が不揃いなのはみっともない、と文句をつけるのが

ふつうだ。けれども、弘融僧都(こうゆうそうず)の、

「品物をきっちり同じに揃えようとするのは、ものの命が

わからない人間のすること。不揃いこそが最上なのだ」という

言葉には、わが意を得た思いがした。

 何事においても、すべてが完全に整い、完結しているのは、

かえって、その仕事の命が終わることになり、よろしくない。

やり残した部分を、そのままに放置してあるのは、

味わいも深く、仕事の命を将来につないでやる方法なのだ。

「内裏(だいり)を造営するときも、必ず未完の部分を残すものだ」

と、ある人が言ったそうだ。そういえば、古代の賢人の

仏教・儒教の書物にも章段の欠けたものが多い。』

                                                                 

古代の人の、人生の知恵こそ、いとをかし。

                                                              

                                                        

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カンペキよサヨウナラ

 これまで、きちんとやろうとする気持ちだけが

先行しすぎて墓穴を掘ったり、空回りしたり

思えば現場の空気から浮いていたり、失敗続き。

連戦連敗。

もうやめました。カンペキのものまね。

                                                                                

「~さん(私の名)は完璧だもん。」

そう言われてはじめてハッとした。

えっ?なになに?何のこと?

と思ったけれど、周りをよ~く見渡して、深く呼吸をして

考えてみたら、よく見えてきました。

人に指摘される前に隙をつくらずにやろうとする癖。

                                                          

できないものはできない状態でありのままでいい。

いつからか、できない自分を恥じて叱責しては

責め続け、無理して合わせてきた。(なにに?)

人の先回りをして知ったかぶりをするのはよそう。

そもそも人間という存在が完璧ではないのだから、

完璧にやることは不自然で、不可能なのでした!

                                                          

「未完の完」

昔から職人はその技術や伝統を次の世代へと繋げる為に、

建造物でもなんでも完全に完成させるのではなく、

どこか一点だけ欠いて、未完のまま次の者へと

引き継いで行く。

そうやって次世代を育ててきた。

なんと粋で、なんとうつくしい心意気ではないですか!!

                                                                  

あえて完成させないでおく。

欠けていることでそのものの存在を際立たせる。

さいしょから人間って、欠けているんだった!

そう思い出すと、些細なことでカッカしなくてすむ。

                                                                     

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バスツアー御一行様

 ご近所の主婦友だち2人と、その子っこ中学1年女子と

中学2年女子とで、仙台の作並温泉へ行ってきました~。

新潟交通 ”くれよん” のバスツアー、バスガイドさん付き。

ツアーなので途中、トイレ休憩兼、観光物産センター

でのショッピング下車を、行き帰りに数回。

                                                          

                                                                      

私は個人旅行主義なので、ご一行様として

最初から最後まで行程をともにするという

旅行をすることがなく、このたび珍しく団体行動。

しかし、みごとツアーのもくろみショッピングに

ハマってしまいました。

                                                                              

・さくらんぼワイン・・・(試飲してついつい勢いで)

・山形のラスク(シベール 麦工房)・・・(友達のオススメ)

・萩の月・・・(有名な宮城銘菓!お約束)

・笹かまぼこ・・・(仙台名物!もれなく お約束)

・牛タンペッパー・・・(ビールのつまみに最高)

・山形豚の角煮、チャーシュー・・・(これまた試食して、つい)

                                                               

                                         

買い物の紙袋を断って店員さんに怪訝な顔をされることも。

観光地は特に紙袋や包装紙が、お土産を渡した人へ

宣伝代わりになるんだろうな、と後で納得。

うーん。日本人の商売よ。

                                                                    

お土産を買う習慣があるのは日本人の特徴らしい。

海外の地で西欧人、欧米人がお土産探しに

熱を上げているのは見たことがない。

あっても、露天商に並ぶ安物の”なんちゃってグッズ”を

面白半分に買っていくくらいだろうか。

                                                     

                              

杜の都仙台。

牡蠣、牛タン、ずんだ餅、ずんだシェーク、くるみゆべしetc・・・

仙台はほんとにおいしいものずくしですねー。

食事付きのバスツアーなので、牡蠣鍋を食べながらの

日本三景 松島のクルーズやら、伊達政宗歴史館

(素通り)や瑞厳寺散策・参拝。。

                                                                  

この春、埼玉へ引越して(もともと埼玉県民)しまう隣人

(主婦友だち親子)との親交の証(?)に計画したツアー参加。

いつも底抜けに明るくて生い立ちから生活まで

さらけだしていて気取りのない、

奥さま。

(なぜにそんなにテンションは高いところで一定か?!)

秘められた人生の企みの、別の楽しみを教えてくれた人よ。

                                                               

                                                             

この隣人との出会いは神様に、”ハメをはずしなさい”

と言われているよう。(この神様のイメージは

オヒョイさん=藤村俊二)

きっと子供らしい子供だったんだろうなぁ、彼女。

(その御子である、中2女子も明るく外交的)

神による人のキャラの配分と配置は絶妙だと

思い知る。

                                                                

                                                            

藪からスティックな発想の思春期の娘さんたちと

過ごした1泊2日の旅。

いいものですね~。

行く前はだんだんめんどうになる。

行った後は行ってよかったと思っている。

なんだかいつだってそんなものかも。

               

 

                                                             

                                

                                                           

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半ドア

 父が旭川医大に一週間ほどの予定で検査入院した。

足の付け根の大動脈からカテーテルを心臓まで通して

心臓を検査したとのこと。

(”とのこと” というのは離れて暮らしているので、

母からの報告と相談になるため)

かなり危険の伴う検査で、術後(?)数時間は絶対安静。

結果、わかったのは、冠攣縮性狭心症(かんれんしゅくせいきょうしんしょう)。

                                                                 

数年前から就寝後、夜中から明け方にかけての時間帯に

突然心臓がけいれんし、呼吸困難な痛みが10分間ほど続く

という苦しみに襲われていたらしい。

その、かんれんしゅくせいきょうしんしょう というやつは

就寝後、安静状態の時に突然見舞われるものだということだ。

                                                                       

地元の町立病院や総合病院では原因が特定できず、

それで、この度思い切って、大きな大学病院できちんと検査をする

ことにしたというもの。

結果的に、治療するほどの重度ではないとのことで、

今後は、症状が出た時には薬を服用していくということになるらしい。

                                                       

かなりつらい検査だったようだが、結果が悪いものでなかったことで、

本人も安堵感を得られたことはよかった。

そのほか多少の動脈硬化も所見されたようだが、

これは加齢による自然現象で、切迫した緊張状態ではない。

                                                         

親も高齢。 ”死なないため”の検査や治療ではなく、

健康で寿命を迎えられるように、死を迎える瞬間まで

自分の意思をもって生きられるよう、

「健康寿命」をまっとうしてほしいと切に願う。

人類史上始まって以来、死ななかった人はいない。

生まれたら、確実に死にむかって歩みはじめる。

万物の生物で死ななかったものに出会ったことはない。

姿かたちをとったものはいつかいなくなる。

            

                                                          

誰も死ななくて誰も生まれない世界は考えただけでも

不気味で鳥肌が立ち、そら恐ろしい。

死ねない人生ほどつらいものはない。 

                                                                  

                                                            

一度伸びたゴムはけっして元に戻らない。

「生まれた者は必ず死にます。」

お通夜の晩に必ずお坊さんから説かれる言葉である。

決まって参列者はドキッとする。

ふだん日常生活でそんなことを考えないからだ。

                                                           

だけれどけっして不思議でも遠い世界のおとぎばなしでもない。

すぐ向かい合わせにある死。

死ぬことを意識すると、生きていることは光り輝く。

私はあるきっかけで、ある日突然、”死” とか 

”あの世” をはっきり意識し、納得した。

35歳のとき。

ドアが開いた という感覚だ。

形は無くなり、目に見えなくなっても、残るもの。                                                            

 

                                                             

それ以来は、なるべくドアは指2本分くらいだけ

開けておくようにしている。

                                                                 

                                                                

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再利用の感動

 カタログを請求したら、A4サイズの封筒に入って届いた。

しかし、それはただモノではなかった。

封筒を横にして右半分に宛名や発送元を印字してあり、

なんと、もう左半分には、受け取り手がその封筒を

再利用できるように、定形郵便サイズで切取り線と

その表示がしてあったではないか!

すばらしき、「パタゴニア」。ブラボー。

                                                           

                                                              

そう、「パタゴニア」というアメリカのアウトドア(厳密には

ロッククライミング用)ウェアのメーカー。

販売する全てのウェアはリサイクル可能な製品。

パタゴニアは世界の自然環境の保護/回復のため、

毎年売上げの1%以上の寄付を行っている。

このメーカーのコンセプトに賛同する。

                                                           

                                                                 

もちろん、私は店頭で購入した際には袋包装を断っている。

マイバッグ派だ。

常に持ち歩くバッグにはエコバッグを2つは入れて携帯している。

つい先日も、「明日のために・・・今」という番組を

テレビで放送していたばかりだが、地球環境を

ごく身近に考えることは今や必須だ。

                                                             

                                                    

一人の行動で何かがすぐ変わるわけではないけれど

現実に自分にできることをやるだけだ。

その権利は放棄してはいけないと思う。

先週末も、数回着用して着なくなったり買ってから一度も袖を

通すことのなかったユニクロの製品30点余りを

リサイクルに持っていった。

(ユニクロは年2回、3月と9月にユニクロ全製品を

リサイクル回収し、アフリカやネパールへ寄付している)

                                                            

                                                           

自分が寄付したものが世界のどこかで誰かの役に立っている

と思うとうれしい。 輸送費とかそんなのは問題ではなく、

無駄にしないで再利用されていることがなによりも重要だ。

リサイクルに出すと、自分の余分な贅肉も落としたような

すっきりした気持ちになれる。

こうしてすっきりする気持ちを積み重ねていきたい。

                                                            

                                                    

この気持ちもリサイクルされるように。

                                                              

                                                          

                                                           

        

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好い加減

 マーフィーの法則っぽいものその1。

「歯医者に行こうと思って予約の電話をかけた日は、

その歯医者は休診日」

まさに今日はそれだった。くーっ。

行けないとなると猛烈に行きたくなる。

(それもマーフィーの法則?!)

                                                             

                                                              

 それにしても、さっき姉と電話でも話していた事、

”心配” ってなんだろう。 

心を配る と書いて心配。 なのでそのまま、心を

その想う相手へ配っているということか。

時には、自分が後で困ったことになったり、自分が後始末に

苦労するだろうからそれを回避する為の心配

だったりすることは、ないとは言い切れるだろうか。

                                                                  

親身に相手のことを思っての心配ももちろんあるだろうし。

けれど必要以上の心配って、どうだろう。

相手のことを信頼していないときに起きないか?

そのまえに、その人への信用や、その人との信頼関係を築くことが

できていないことを反省したほうがいいのではないだろうか。

                                                         

                                                           

私は、人には(生物には)生まれ持った防御本能や

生命力があると信じているので、

準備をしてスタートを切ってしまったらあとは、

ここぞという時にはその生命力に任せたい。

                                                                

 「過ぎたるは及ばざるが如し」

が表わす、古代の人々の深い知恵に思いを馳せる。

やりすぎてもだめだし、やらなさすぎてもだめ。

”好い(良い ではない)加減”

その字のごとく、好ましい加減。 加えて、減らして。

ほんとうに難しい。鍛錬を積まないと加減は習得できない。

                                                               

                                                            

なにかの準備のために、毎日を生きているような感じすらする。                         

練習あるのみ。

(ガッツポーズ!)                          

                                                       

                                                              

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言葉を越えて

 ここ最近めっきり気温の低い冬日が続いているのに、

うちのとなりにある高校へ通う女子高校生たちは素足。

私が中学・高校生の頃は、タイツをはかないとよく母親に言われたものだ。

「そんな寒い格好して、大人になったらリュウマチになるよ!」

きっとあの女子高生たちの母親も口うるさく言っているはずだ。

                                                              

                                                             

そんなことはおかまいなしに、毎日真っ赤になった足を

制服のスカートから出している彼女たち。

そんな姿が目に入ってくるこちらが寒々しく鳥肌が立つくらい。

聞く耳はない。

(札幌のある中学校では、女子の冬の制服を全員

スラックスに変えたという)

その年頃って、いくら大人に言われても聞かない。

10代という乗り物に乗っかって、別世界を走っている彼女らには

届くわけがない。

                                                                

                                                           

いつも思うけど、まさにその自分の一瞬を生きているときに、

ずっと前にその ”旬” を通り過ぎて教訓を得た者が

アドバイスをしたところで、

馬の耳に念仏です。

よく、いい年をした大人が自分よりもずっと年の若い人と

(なかば無理やり?!)行動を共にしたがる人がいるけれど、

それはやはり、無理というもの。

彼は彼女らは、一生にたった一度だけしかチャンスのない

舞台に立っているのだから。

一度折れた刃は二度と元に戻らない。

                                                            

                                                             

たとえ未熟でもたよりなくても、その年齢でしか

渡れない橋がある。

だからそっとしておくのが、いい。

遠くはなれて、微笑んでそっとあたたかい優しさの海で

泳がせているのがいい。

そうすれば、いつか必ず向こうからやって来るから。

自分の血肉を通して経験したことでしか、人は理解しないもの。 

                                                               

                                                              

言葉にたよらない。

年末に行ったフランスは、静かだった。

パリは、自立していて成熟した真に大人の町。

お店の中もBGMなし、街にも、余計な宣伝は一切ない。

メトロ(地下鉄)にも放送や音はない。

その代わりに得られるのは、気配を感じ取る とか、

想像力とか、自分の感覚を研ぎ澄ませる とか、

忙しく騒々しい生活の中で日本人がとおに忘れてしまった

感覚と自立心。

                                                                 

                                                           

ただそこにいる(ある)だけで絵になる。

沈黙は金なり。

                                                              

                                                                           

だけど女子高生たち、体をもっと大切に

と、念を送ります。

いい夢見ろよ。

合掌。

                                                            

                                                                                   

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安定

 むかし、少女の頃、太った人が嫌いだった。

根拠もなく嫌いで、許せなかった。

そのうち、自分が太るのがいやで食べるのをやめてしまった。

拒食症。 思春期心身症というのに、若干10才でなってしまった。

原因もわからず、検査しようも身体の異常は見つからない。

西洋医学ではどうすることもできず、手も足も出なかった。

30年も前、思春期心身症なんてまだ前例がほとんどなく、

病名も判定できない。

なので、病院はたらいまわし。

                                                          

                                                             

詳しい話はとめどないので省略。

どんな治療も効かなかった。

なぜ、生還できたのか。

当時小5のクラス担任が家に訪問してくれた(ずっと学校を

休んでばかりいたので、定期的に顔を見にきてくれた)

ある時、その瞬間は起こったのだ。

                                                                   

先生の、ただ、そこにいるたたずまい。

それは、説教でもなく、治療でもなく、なぐさめでもなく、

同情でもなく、叱責でもなく、自己防衛でもなく、

ただ、現実に寄り添い、話を聞いてくれていたこと。

かといって、こちらがペラペラとしゃべったわけでない。

こころがこころに触れるとき。

                                                                      

                         

あのときの、氷が溶けるようなあの ”感じ” は、

いったい何だったのだろう。

ずっと探してきたけれど、それは

「安心感」 だった。

心が安定している大人に初めて出会ったのだった。

そして、満ち潮のように、治る”時期が来た” としか言いようがない。

                                                              

                                                              

なぜあんなに太った人に嫌悪感を持っていたのか。

それは、体を甘やかしている=心も軟弱 という図を、

少女期の柔らかでストレートな感受性が、知らず知らずに

描いてしまっていたからではないだろうか。

今、いろんな視点で ”安定” というものを考えさせられる。

                                                                               

 

 およそ10ヶ月に及ぶ拒食症との闘病生活。。。。

体重は19Kgまで落ち込んだ。ほとんど臓器と骨の重さかも。

あの成長期にもっと人並みに栄養をとっていたら、

もう少し身長が伸びていただろうと、今でも信じて疑わない。

(しかしなぜ、せめて点滴を打つということはしなかったのだろう??)

                                                    

                                                           

                                                

                                                        

   

                                                                 

                                                                      

 

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けんかについて

 ”けんかするほど仲がいい”

っていう昔からのことばが表わすように、

わかるまではけんかはどんどんするほうがいい。

もちろん未成年のうちに。

我と我のぶつかり合いをしてでないとわからないことがある。

けんかをしてはじめて、相手との折り合いのつけ方を

覚える。

逆にそれ(けんか)がないと不健全のような気がするけど、

どうだろう。 

その後に必要な、決定的な ”なにか” が欠ける。

                                                                     

               

                                 

大人になっても知り会って間もない人と、その人とずっと信頼関係を

築きたいと思っているなら、けんかは自然におこること。

同じやり方、同じ考えの人間などいないように、

人はお互いの最小公倍数で折り合いをつけて

心の筋力を高めていく。

                                                          

                                                  

体の筋力が弱まれば心も弱まってしまうもの。

滝に打たれる修行僧のように、体を甘やかさずいると

心も強くしなやかになっていくのは、

気のせいではないとおもう。

先日、イチロー選手のインタビューをテレビで見た。

めったにインタビューを受けないのに珍しいな、と思って

興味深く見ていて、終わった後に感じたことは、

心が強く、しなやかだった ということ。

                                                           

そこまでの道のりの間は想像を絶する苦しみや

かなしみがもちろんあったのだろうと思う。

人間は、どこまでも深まる。

けんかをして、深まることもある。

                                                    

                                                         

 

                                                           

                                                             

                                                          

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一流のジョーク?

 今朝、通勤時間真っ只中、車に乗っている途中の道、

あまり広くない片側一車線の道路前方に、横付けに

軽自動車が停車していた。

大きなマンションの前。

こちらの車を含め後続車が次々に迫り来る中、

その軽自動車から年配とみられる女性が買い物の荷物を持って降りた。

                                                             

                                                       

道が狭いので、対向車とすれ違うにはいったんこちら側が

その軽自動車の後ろで停止してやり過ごさないと通れない。

降りてきたこの女性と目が合った。

向かい側にはマンション横のホテルの、大型有料駐車場がある。

そのマンションへの訪問者か、荷物を置いてくるために

一時的に駐車した住人なのか。                                                     

朝の通勤時間帯に狭い駐車禁止道路への駐車。

相手は 「ちょっとくらい」 と思ってのことかどうかはわからない。

                                                               

                                                               

問題はここから。

”通行の邪魔だから車をどけて”

”こんなところに停めないで”

”命にかかわるほど(救急車なみに)緊急のための停車か”

・・・・・とっさに言いたくなる言葉がある。

実際その場は 「あぶないでしょ」 くらいの警告のために

クラクションを短く鳴らして知らせて終わったのだが。

(検閲と理性がはたらいている)

                                                            

                                                                 

数分後、はたと考えた。

目の前に誰でも停められる有料駐車場がある。

こんなとき、アメリカ人的な、あの、悪びれのないジョークっぽい、

ウィットに富んだことばが出てくれば、と思った。

                                                             

 「駐車場ならそこにありますよ」

  (ジェスチャーを添えて親切そうに) 

 「私の運転が下手でおたくの車にぶつかりそうになったわ」

  (相手の負の気持ちを軽減するように)

                                                                          

                                                                

 映画やドラマで見るアメリカ人の家庭や会社でのやりとり、

あの、周りの空気を的確なジョークで包む機転のはやさ。

あれですよ、あれ。

その考え方って、小さい頃から日常的に慣れていないと

なかなか出るものではないのでしょうね~。

             

                                                  

見ず知らずの人とトラブルを起こすことのないように

日々訓練(ジョークの)し、歩みたいものです。

                                                         

                                                             

                                                

                                                                

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マーフィーの人生哲学

 マーフィーの法則。

古本屋にて、久しぶりにマーフィーの法則の本を手にとってみた。

思わず大きな声で笑いそうになり、必死でこらえた。

”あるある!” ”そのとおり!” っていう法則ばかり。

たとえば、

「車にワックスをかけた日は必ず水溜りが待っている」

「会議とは、少数の者だけが意見を出し、大多数の者が賛同し、

たった一人の決定で決まる民主主義である」

「全員が満足した会議は、中味がない」

「”今度○○へ行きましょう” の、”今度”とは、言われた者が

計画し、行動を起こさないと決して来ない」 等々。。。。

                                                          

中でも印象的だったのは、

「今の老人をみれば、今の若者の将来がわかる。今の若者を

みれば、今の老人の過去がわかる」

なるほど。

人は大人の背中を見て手本として成長するもの。

                                                         

                                                             

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日常の凡庸の中の本質

 月に10日ほどパート勤務をしている。

毎日(毎日勤務ではないので正確には毎回)、同じことの繰り返しで、

単調な事務作業とカウンターでの接客をやっている。

が、それがいかに難しいことであるか、忍耐力と精神的な柔軟さが

問われるかが最近になって感じるようになった。

強いだけではだめで、柔軟であること。

 

                                          

自分はなにになろうとしているのか、どんな気持ちで臨んでいるのか、

を意識していないとミスにつながってしまう(私の場合は)。

アルバイトでも、生計を立てるために毎日働くのと

本質は決して変わりはないのだということ。

 

                                                            

自分の甘えにハッとした。

きちんとやることが習慣づいていない、怠惰で甘い考えであったこと。

すべてのうまくいかなさの根っこだった。

上司の指導が厳しいこともあるけれど、

ちゃんとできて当たり前。その先に遊び(車のハンドルでいうアソび)

があるということ。

”わかっているつもり”は幻想だった。

                                                                      

単調な中にこそ本質はある。

誰でもやる、誰でも出来ることの中に本質は埋没している。

まるで、どんどんたまっていく日用品をほったらかしにしていて

ある日思い立って掘りくりかえして、

「ここにあったのか!!」

と驚き叫び声をあげる瞬間に似ている。

                                                             

なぜ人間は単調な日常の暮らしを繰り返さなくてはならないのか、

特に、定年を過ぎて仕事もリタイアした後に、

どんな気持ちで暮らしていくのかを、今のうちに

問われているようだ。

現代は楽しい娯楽や、努力なしでも得られる一時的に気がまぎれる

面白いことがあふれている異常な時代だ。

                                                        

そして人生の晩年の夫婦二人だけの生活は、

人間というもの、そして人生の本質に向きあい、悟るための

最後のチャンスでもあるように思う。

                                                        

  

                                                           

                                                           

                                      

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肉体のメンテナンス

 昨日の夜ヨガから帰ってきて、軽い夕食の支度をしているとき、

急な疲労感と脱力感に襲われた。

作り終えてすぐにぱーっと横になり、あとの片付け、

洗濯物干しからすべての家事を放棄した。

夫は台所の勝手のわからなさやなんかで、ぶつぶつ文句を

言いながらも片付けすべてを請け負ってくれた。

 

しかも、うまいのである。

ふとんの直し方から、皿洗い。

丁寧だわ~。

やはりたまにしかやならいのと、毎日やるのとでは度合いが

違ってくるのだ、と自分に都合よく解釈している私。

       

                                                          

なにも育てていない私でさえこんななのだから、子供が何人もいて

家族の多い主婦はさぞかし、毎日たいへんなことだろう、

と思う。 本当によくやっているな、と心から尊敬する。

これは、手抜き部門と、手をかける部門をちゃんと

つくらないと続くものではないな~。

と、実感する。

          

                                                            

だけど今までなかった突然の疲労感。

年齢は体が正直に教えてくれるなぁ。

よく働いてくれているこの体。

寿命まで、命が果てる一分前まで、

働いてくれるようメンテナンスはするべきだな、と

感じています。

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模様の記憶、旅の記憶

 久々に、ふとしたことから食器に関心が戻り、

食器棚の古い食器などを見かえして見た。

私はおっちょこちょいで、食器類はすぐに割ってしまう。

なので薄手の(高級な)食器は苦手なため、厚手のしっかりした

食器を好んで使う。

                                                                   

以前、Yahho!オークションで検索をし、気に入った食器を

一日中探しては、よく落札したりもしたが、やはり、毎日使う食器は

使い勝手の良いシンプルで頑丈なものに落ち着いている。

最近一目ぼれして即購入した、栗原はるみさんのお店の商品、

市松柄の小皿。

ステンレスのフライヤーもすごく気になるなあ。

いつかGetしよう。

                                                        

市松模様が好きである。 製作したステンドグラスの腐食という

技法の模様にも、市松柄を入れた。

他にも市松柄のものを見つけると気に入って買う。

(めったに気に入ることはないのだけれど)

市松模様。

和柄の象徴だけれど、洋にも合うし、その絶妙なバランスに

とても惹かれる。

  

                                                         

毎日使う食器なのに、毎日毎日見ているのに、不思議なもので、

新しい食器を仕入れる なんて考えもつかないこともあれば、

突然見えなかったものが見えたかのように、

急に関心が行くことってある。

衝動買いするのはそんな時。

                    

                                           

私は、これ!というものがない限りめったに買い物はしない。

旅行に行っても物はほとんど買ったことがない。

旅は、旅をすること自体を楽しみたいので。

それと、心が動いて気に入ったものを身の回りに置きたいし、

身に着けたいと思っているから。

そういう”物”とは長く付き合う。

                                                                      

思い起こせば、今まで旅先でもほとんど物を買っていないため、

その時の旅の思い出を喚起させる象徴の物質がない。

それだけけっこうな回数を旅しているせいもあるので、

そのたびに土産品を買っていては財布の身が持たない。

今も、旅は、その記憶を大切に引き出しにしまってあるけれど、

忘れっぽくなってきたせいか、最近は土産品のひとつくらい

買っておくのもいいかな、と思うようになっちゃったな、こりゃ。

                                                           

                                                                  

                                                               

                                                             

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知識は身をたすく

 とても興味深い言葉を知った。

「ダブルバインド」

=矛盾する二つの命令の中でどちらも選べず、かといって

そこから逃げ出すことも許されないという状況が続き、

思考停止に陥ること。

(最近読んだ本 「銀色ナイフ」 銀色夏生 著

 の言葉から引用します)

                                                                

言葉では肯定しているのにそれ以外のところから発信しているものが

否定していること らしい。

それは例えば、

言葉では ”いいよ”と言っているのに態度は明らかに怒っているとか、

お母さんが言葉では ”いい人と早く結婚しなさい”と言っているのに

実際にそうしようとすると、すごく不機嫌になる とか。

                                                            

言われた方はだんだんどうすればいいのかわからなくなってくる。

そうなってしまうと状況判断ができなくなり、

人の言うことの本意がわからなくなり、やがて文字通りの意味でしか

人の言うことをとらえられなくなったり、その反対に言葉の裏ばかりが

気になったりするらしい。                       

このダブルバインドをしかける人は、親子、夫婦、

上司、先生など権力構造の上位者で、

力関係の強者をストレッサー(ストレス要因)という。

                                                             

こればっかりは、逃げる(or距離をおく)しかないらしい。

その力関係者からの、言葉と態度の矛盾に苦しんでいる人って

どうも多いらしい。

なるほど~。 なんか、ひとつの謎が解けてスーッと

胸が楽になったみたい。

しかもこのダブルバインド、連鎖していくという。親から子とか。

                                                                       

この言葉を知って楽になる人っていると思う。

知識は、身を助けてくれる(こともある)。

                                                                    

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思い浮かぶのは

 短大へ入学と同時に親元を離れ一人暮らしをはじめた頃。

親からの仕送りを受けながら当時借りていたのが

大家さんも住むアパートの3階(1回は駐車スペース)の部屋で、

月末に翌月分の家賃を階下の大家さん宅へ支払いに行っていた。

大家さん夫妻には幼い子供が二人いた。

男の子は旦那さんと瓜ふたつで、女の子は奥さんそっくりだったのを

よく覚えている。

                

                                                        

家賃を持っていくといつも玄関口に奥さんが出た。

ものすごく腰が低くて、当時18歳の小娘の私が恐縮するほど

低姿勢の謙虚な方であった。

今思うと30代前半だろう。今の私の年齢よりもずっと若かったはず。

あの謙虚さを学びたい。

家賃の後ろに流れる、親の血と汗と愛情のお金の価値を

きっとお子さん達に伝えられるような子育てを

なさったことと察します。

                                                 

媚の感じられない謙虚さで思い浮かぶのは

あの大家さんの奥さん。

お元気ですか。

お子さん達、成長したでしょうネ。

                                                            

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星のかなたのあの人へ

 一対一で向き合い会話するなら喜んでしようと思う。

ほかに誰かが、その他大勢がいないときに。

助け船を出せない状況のときに人は本来の自分の力を

出してくれるんじゃないかな。

私はそれを待っていますよ。

                                                                   

心と心で、自分の気持ちを見せてもらえないと

こちらもそれなりの対応にしかならない。

非常にもったいない。

せっかく、縁あってこの世で出会ったのだから。

何とか接点を見つけたいと今でも思っています。

                                                            

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深い川

 私は、食べること があまり好きではなく(食道楽でないという意味)、

どこのあれがおいしいとか、新しくお店ができたから

行ってみたいとか思わないタイプで、

だからといって、料理が嫌いなことはない。むしろ好きなほう。

きれいなもの(緑黄色野菜やトマトの赤、ごまの黒などなど)

や素材のいいものはもちろん好きなので。

      

                                                           

いろんなものを食べ歩くことに興味がない、というと、

料理をしていないんじゃないか と思われるけれど

それは既成概念。 子供は偏見がないからそんなことは

考えない。

個人的な嗜好を、他の人に押し付けたり、巻き込んだりは

するわけにはいかないと思っているので、

ちゃんと栄養を考えて家族の食事を作ります。

それはそれ、なんです。

そりゃあ、シェフのようにはいかないけど。

                                                                  

なので、パッと受けた印象や固定観念では計り知れない

内実が、人と人の間に深い川のように横たわっていることを

いつも肝に命じておきたいと、常々思っている。

         

                                                      

                   

                                                                 

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通過儀礼

 人と会話しているときに流れの中で私はたびたび、

「~へ行ってきたんだね」とか、(たとえば)「うに丼を食べたの?」

と相手に聞く。

このとき、うらやみもなじりも妬みも全く含んでいなくて、ただ単に

淡々と(事実だけを)聞いているだけなのだ。 

                                                            

というよりも会話の流れで一応言っておかなくてはいけないかな、

くらいの私にとっては一種の簡単な通過儀礼

みたいなものに過ぎないのだけれど、

世間的には、この言葉の裏に妬みやうらやみやなじりが

入っているのが一般的なものでしょうか?

他の人はどうなのだろう?

                             

                                       

私はそれでよく誤解を受けることがあるようで。

逆の立場だと、言ってる本人の言葉にそういったうらやみ、

妬み、なじりが含まれているから、自分も聞かれたら

そう思うのでしょうか?

私の場合には、ほんとうに、淡々と言葉を言っただけなのだ。

ほかに何の妬みもうらやみもなじりも、まったく、ない。                                                       

                    

                                     

誤解をまねくとしたら、今度からは言い方を変えたほうが

いいのかなぁ。それとも、聞き手となるときは必ずそのように

脳が反応するようにできている?

う~ん、言葉というのは発する人と、聞く側の間 に流れる

ウィット(機知、機転)の回流なんだな~

と思う。

                   

最近の、おもしろかった本:

(感性にうったえかける七つのストーリー!)

                                                            

 「頭のうちどころが悪かった熊の話」

 安東みきえ 著  理論社出版

                                     

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ロールプレイ

 先日見た テレビ番組 ”深イイ話”。

プロゴルファーの片山さんが披露してくれたいい話。

尊敬するジャック・ニクラウス氏が、大切なパターを盗まれた時の、

記者会見で発した一言。

「パターのことはいいのです。それよりも私は、パターを盗んだ人の

その後の人生の事の方が心配だ。」 

                                                             

ああ、こうして稚拙な文にして書くことの方が憚られる、

こんなあたたかい心を言葉にできるなんて、なんという人でしょうか。

この会見を見た犯人(パターを盗んだ彼のファン)は、その後

そのパターをジャック・ニクラウス氏に返したという話。

心が心を動かす瞬間を、見た。

                                                             

それで更にすごいと思ったのは、司会の島田紳助が、”テレビの前だから

そう言ってるけど楽屋では感情まる出しでものすごく怒ってるかも”

というようなことを、いつものようにやわらかい関西弁でおもしろく

しゃべっていたところ。

こんなイイ話の逆の事を、憎まれずに言えるのは

島田紳士助ならでは。

                                                            

自分の役割を熟知している「プロ」 だと思った。

(そもそもシナリオというやつがあるのだろうけど)

ほかに私がプロだと思ってテレビを見ているのは

ビートたけしと爆笑問題の太田光。

                                                                                                         

                                                             

以前はそんな目でテレビの番組を見ることはなかったのに、

このごろ妙にその役割が目につく。

テレビの中の人間模様を見ていると、どんな社会の人間模様

にも通じるなぁと思う。

テレビをほとんど見ることのなかった私は

新年の企画番組を見るともなしに見ていて、

今までとは違った見方をしていることに気がついた。

                                                            

年をとるといろんなことが、世の中の仕組みがわかってきますね。

社会的責任の重みと引き換えに、

年を重ねるとだんだん楽になってきた。

すばらしき、年配者の先輩方に学ぶことはほんとうに多い。

だって、この感覚の先を行ってるんだもの。

そうじゃない、 「?」 の人も、ひとつくらいは、ある。

いいところを見れば。

ひとはそれぞれ自分の役割をロールプレイして

明日に橋を架けているようなものかも。                             

                                                           

                                                           

 

                                                           

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そのとき

 子供は、自分のすべてを肯定されたいと思っている。

幼い時に、何かしてもすぐ評価したり否定をされたと感じると、

どんどん心を閉ざしてしまうので、自分の感情・喜怒哀楽を

表に出すことが出来なくなってしまうもの。

痛かった時に ”痛い” と言うと、こちらが「痛かったね。」とか、

熱かった時に”熱いっ”と言うと、こちらも「そうだね、熱かったね。」と

いったん、その子供の感情すべてを受け容れる。

表面の言葉だけ見ないで、心を見て、心どうしで会話する。

                        

                                            

大人になってからの全ての根底にはこの前提があるように思うのだが、

どうだろう。

子供の頃から親に全てを肯定されてきたと感じられる子は、

感じたまま、”うれしい” ”楽しい” などのプラスの感情を

自然に素直に表わせるようになる気がする。

”いやだ” ”やりたくない” などのマイナス感情ならなおのこと。

相手の ”心” を受け取ることができるようになっているから。

なので、他者の感情も認めることが出来るし、他者の意見も

素直に聞き入れることができる。

                                                                

知らないだけで、子供の頃からすべてを否定されてきたと感じて

育った人は、驚くほどの数になるのではないだろうか。

社会生活の限られた時間の中では、なかなか他人には

見抜かれない。

けれどもいつも同じクセで失敗を繰り返してしまうとか、

そういうときに、この大前提が顔を出す。

                                                             

その子供がそうなら、その親もそうだった可能性が高いと思う。

人は、自分がされたことしか出来ないのだから。

だから、その悪循環を断ち切るのは、気づいた時だ。

そのとき” は、自分で打破できる力をすでに備えている。

                                    

                                                               

 子供は、「自分のせいで親は不機嫌なんだ」とか、

「自分がここにいるせいで楽しくないんだ」 と思いながら

生きる生き物だ。

不思議なことにそれはどんな子供にも、あてはまる。

親の保護を受けなければ絶対に生きられない子供期間に、

自分を守ってもらおうとする、生理的な本能から来ているのだろう。

                                                                   

表面的な言葉だけきれいでも、心が入っていないと

相手の胸の奥深くには届かない。

たとえ口は悪くても、愛情を伴う言葉 は必ず心が受けとめている。

その種がいつか芽を出し、花を咲かせ、実を実らせる。

まぶしいほどに光り輝く、子供の放つパワー。

それを守るためなら教師や大人は、どんなことだって

命かけてやらんといけん。

                                                             

                                                               

                                                            

                                                          

 

                       

 

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皮肉について

 皮肉 ってなんだろ。

その字をみると、皮と肉。語源ってなんだろうな。

なぜ皮肉って言うんだろ。

たぶん、他者が自分の思惑通りの態度をとったり

言葉を発したり行動したりしないので、不満だからだろうなぁ。

それとなにか根底に根深い、やはり不満があるとき。

いずれにしても、自分をわかってもらいたいという

叫びに近い一方的なエネルギーがある。

                                 

表面だけの、いい人同士を演じてる分には皮肉は

出てこないだろうけど、それって本当の自分というものを

どこか遠いところに隠してしまっているので。

めったに会わない人や知人の関係の、

その人との適切な距離感をつかんでいる場合には、

皮肉って出ないものだなと。

                                                                   

思うのは、どんなに親しくてもある程度の距離感を

感じながら尊重して付き合うことが肝心。

だから親友っていうのは一人か二人になるんだろうな。

正確にはふるいにかけられて残るというか。

なので親友には自分という中味の、円でいうなら180度か

もう少し以上は見せてあげられる。

             

                                                            

皮肉をいうに至るまでの、その、話せば長くなるその人の心情

が光の速度よりも早く脳内で反応し、一瞬にして言葉に出る。

それをテレビを見てとか、毎日やっているのだなあ。

特に仕事やなんかで忙しく、我慢をしたことが多い日などは。

                                                             

その皮肉のエネルギーをほかの作業で変換すると

驚くほど才能が発揮されるかも。

子供同士のいじめは、ほかに集中できるものがないから

エネルギーが変なことろに向かうのでは。

                                                                         

                                                                

  

                                                          

                       

 

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威厳と尊重

 思春期ってものすごく、重要だ。

思春期に考えていた色々なことは今になってもずっとずっと

自分を支えてくれる土台になる。

それはまさにすばらしい財産である。

                                                               

思春期。その地点から、自分なりに見知った世の中のこと、考え、

自分とは何か、自分はどこから来たのか、そしてどこへ

行こうとしているのか。

この思惟を思春期に真剣にしていたかどうか、

その後の人生の節目に大きな段差が生じる(と思う)。

                                                     

見ないふりをしていると、それはもう一歩では

またぐことのできない大きな段差になっている。

                                                                  

30代を過ぎていい大人になり、育ててくれた親という人間の

人格や人間性というものをはっきり意識できるようになったとき、

年月を過ごした、”親” という存在の”威厳” が、

色んなことを左右する(と思う)。

愛情を持ってフランクに付き合い、ため口もきき、けれども

その長きにわたる年月で互いのことを ”尊重” できる

関係を築くこと。

それが欠けているのではないだろうか。

子が親を、親が子を殺害する事件は現在は珍しくなくて

びっくりする。

                                                            

背が伸びるとか、歯が生え変わるとか、

体の成長はいずれ止まるけれど、

精神の成長という自分の人生のなかのレースからは

一生、降りることはできないのだ。

日々、ニュースを見ても、旅行へ出かけても、

ただ歩いているだけでも、そのことだけは

わかる。

                                                 

                                                      

                                                             

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達人。

 ありがたい。

なにがありがたいかって、ユニクロですよ。

冬になると家の中が冷え冷えする内地(北海道のひとは本州を

さすとき ”ないち(内地)” というのですよ)では、

ユニクロのヒートテック素材のアンダーウェアはヘビロテなのだ。

何しろ安価ですし、もうこれはやめられません。

薄手なので着膨れしないし、汗をかいても発散させるし、

すばらしきかな、ヒートテック。

                                                                   

ユニクロの商品。素材・デザイン、年々、

進化し続けているところが、いい。

定価2990円で購入したものが、3週間後くらいに

500円のワゴンセールになっていたときには、

どーんとショックの底に突き落とされたが、もうそれって、

ユニクロを買う者にとっての宿命みたいなもので、

週変わりで期間限定の値下げをしてはまた定価に戻す、

そのサイクルを理解していれば、かけひきをくりかえして

一番ベストな時ではないけれどもタイムリーに商品をGetできる。(かも)

                                                                   

しかもオンライン限定商品はすぐに完売してしまうことが多いし、

同じものは作らないので、ユニクロのものだとバレない事もある。

(まるでバレるのを恐れているような言い回し)

                                                               

ユニクロのように、価格が安くて使いやすくて、

そこそこワンシーズンくらいもてばいいかな、くらいの感覚で

買えるものにはすぐ手が出てしまうのですね。

中国産。今や海外に行っても、その国で生産された土産物を

探すことは困難だ。 ほとんどが ”made in china”。

それでも、その旅先で買った記念のものなのだから、と

購入するけれど、なぜか、がっかり感は否めない。

                                                               

世界の産業を一手に引き受けている中国の人たち。

私も、買う側でなく、もし中国に生まれていたら、

ものを生産する(切ったり縫ったり貼ったり)技術の、

手に職のある何億人分の一の達人になっていただろうか。

                                                                

                                                               

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アンテナ

 私は思う。

できないのではなく、扉が開いていないだけ。

心の扉がまだ閉まったままなだけ。

北風と太陽の、太陽のようにあたたかく照らしてあげると、

おのずと開く心。

人の中にしまわれている引出しの中のものを

引き出してあげること。

                                                                         

人生を歩いていると、どんどんどんどん、

自分でも知らなかったものが引き出されてくるから

おもしろいよ。

どこからかとってきたものでもなく、

だれからかもらったものでもなく、

自分のなかに眠っていたもの。

とにかく感受性のアンテナを高く、

しておこう。

                                                             

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矩(のり)

 2年ぶり?くらいにめずらしく風邪をひいてしまった。

たぶん相方にうつされたのだろう。

普段気をつけているのでほとんど風邪にやられない。

ヨガをやってからは、鼻呼吸を意識している。

息を口から吸うと直接菌を取り込んでしまうが、

鼻から吸うと鼻の粘膜がフィルターの役割をして

風邪菌も入りにくいと聞いていたからだ。

                                                                

一昨日ソウルから帰ってきたのだけれど、あちらは大陸、

ひどく乾燥しているし、そろそろ冬の到来で

朝、夜は厳寒である。

”韓国の浅草”と言われている 仁寺洞(インサドン)は

銀杏並木が黄金色に輝いていて本当にきれいだった。

                                                              

欧米人の観光客は、ここで安くて面白いものを見つけては

楽しんで買っていく。欧米の人は旅先でお土産を買う 

という習慣を持たないため、自分自身が旅を楽しむ。

免税店に行くと9割以上が日本人観光客。

”せっかくだから買わなくては” という観念にかられるのか

日本の日常を離れると感覚がおかしくなってくる。

                                                    

現在の自分自身の身の丈に合った ”矩(のり)”

というものを考えさせられる。

                                                            

                                                     

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山登りと山降り

 ふるさとに住む親と、機会を見つけては年に何度か

北海道内の道をぶらり車で走る。

牧場から牧場への広い道のりの間に、ぽつんと残された

廃屋が視界に入る。 おそらくは離農してそこを去っていった家族が

かつては数十年暮らしていた家屋だと思われる。

こんなに広い大地に、目にあざやかな新緑の色がひろがる。

                                                               

 めったに人も通らない山間部の木々に会い、

ここにいたんだね、と心の中で話しかけてみる。

これまでも、これからもずっとここにいるんだね。

 こんなすばらしい空と大地と色とりどりの自然を見られるならば、

100年でも生きて見ていたい、と思う。

                                                                 

不老不死もなく、永遠が果てしなく続くならば、

そんな気持ちになるだろうか。

                                                          

”山は登ったら、降りてくるものだ”

                                                               

 いま、これまで登った”山”を思い返してみる。

はたして現在は、降りた場所にいるのだろうか。

山に登っている途中なのだろうか。

山を降りている途中なのだろうか。

決まってそれがわかるのは、いつもずっと後になってからだ。

                                                          

                                                        

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万障?くりあわせ

「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

                  ~ニーチェの格言                                                             

 悩みってありますか。

悩みがあるなんて感じさせませんね。

よく私に向けられる言葉である。

どんな人にだって悩みはあるに決まっている。

あたりまえだから顔や口に出さないだけだし、自分から

言う必要もない と思っている。  

                                                        

思わず愚痴を言ってみたくなることもある。

けれどそれは細心の注意が必要で、慎重にしなければいけない。

相手の話を聞くのは長くてもせいぜい1時間が限界だ。

まして同じ経験をした者でないと絶対に理解できないし

理解してもらおうとするほうが無理である。

愚痴は愚痴なのだ。

言うほうも聞くほうもルールを知っていないと難しい。

                                                         

最近、某芸能人の結婚披露宴がテレビで披露

されていたのを見た。

ここに自分がいるんだよという表現を、これでもかと

刻みつけようとしているようで、痛々しかった。

一般人の知らないところ同士だけで、多額のお金が

動いているんだなぁと、ただただ感心してしまった。

                                                                     

そして、”役割” ということばが思い浮かんだ。

いろいろ無理な注文をつけられる。無理難題を

押し付ける。行為は一見、傲慢に思えるけれども、

注文をつけられた側は、自分のなかに潜んでいた引き出しを

引っ張り出す。普段、決して使われない沈んでいた能力も

引き出されるのではないかと、ふと考えた。

 世の中の万象、無駄ではないな、と思う。

                                                             

最近観た映画: 『過去のない男』 『長い散歩』

最近読み終わった本:「夜と霧」 ヴィクトール・E・フランクル著

                    池田 香代子訳                                                                           

 

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レンズのブレ

 携帯電話の調子がよくない。

というか好ましくない。

かけたはずもない先の発信履歴が日を変えて二度も残ったりして

まるで怪奇現象だ。

もしかして、私 という人間がどこかにもう一人存在していて

携帯を操作しているとか。

これって、スピリチュアルでいう、魂のぶれ?みたいなもの

だったりして。

                                                              

レンズをのぞいて二重にぶれて見えるように、

魂が二重にずれていて、しっかりひとつになっていないので

知らないうちに別の自分の姿をとって

成り代わられている?

                                          

そう考えると、思い当たらないとも、いえない。

本意でない、苦手な分野の仕事を流れのままに無理して

続けているために、マイナスエネルギーを発している。

本来の自分らしいエネルギーが発揮できない場にいるということは、

結果的に周りにもめいわくをもたらしている。                                                              

                                                           

なんだか足元をすくわれたような感じ。

ここでひとつ入魂しなおさなくてはいけない時。

ちょうど、鼓童12月公演がもうすぐある。

その舞台を体感して波長を取り戻すいい時期だろう。

                                                             

舞台を観に行く、演奏を聴きに行く、そんな機会を持つことは、

自分を遠くから眺めるにいい ”時期” なのかもしれない。

そのために、舞台、公演、コンサート、演劇があり

観に行く人の足を運ばせるのかもしれない、と思う。

                                                       

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喪失

 大殺界も3年目(減退)。少々バテ気味。

ブログの更新もままならないのは仕事やら世間的な

つまらないことに気を取られている時間が長いため。

現実との折合いは容易ではないのである。

                                                                  

 さて南船橋のIKEAへ行ってきた。北欧へのちょっとした

旅気分で楽しかった。2回目だけれど面白い。

買い物用の大きなIKEAバッグに会計前の商品を

入れたまま、レストランで軽食が取れるし(スウェーデン料理の

ミートボールなど)、1階には100円ホットドッグや

50円ソフトクリームが気軽に食べられていい。

土曜だったせいもあり、店内は小さい子供連れの家族たちで

あふれかえっていた。オープン当初はレジ3時間待ちだったとか。

                                                                 

IKEAは、北欧のセンスのいいインテリアのサンプルを見てまわり、

安く売る小物や照明を発見するのがおもしろい。

そしてこのごろは、他のどの最新の場所でも

おもしろいと思わなくなっていることに気づいた。

この喪失感って、何なのだろう。

                                                

                                                    

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8月15日によせて

 どんなふうに言いくるめようか

どんなふうに圧倒してやろうか

意図すればするほど 

虚しく

自らが みにくくなるだけ

さらに遠ざかるだけ

                                                                     

あるがままに寄り添い

そのものの本来のあり方を

見通すことが

できないものだろうか

                                                              

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掘り出しもの

 夏休みの過ごし方 というテーマのコラムで

以前読んだものが印象に残っている。

それは、夏休み(冬休み)に入って親は子どもと過ごす時間が

長くなり、長い時間一緒にいると色んな感情も見えてくる。

子どもの正の感情(うれしい、楽しい等)はすんなり受けとめられるが、

負の感情(いやだ、嫌い、憎らしい等)は、親はなかなか

受け入れられず、それらの負の感情の処理の仕方を教えることは

難しい というものだった。

                                                          

                                                             

確かにネガティブに思える感情は受け入れがたいが、

実はそこに重要なポイントがあるような気がする。

負の感情も人間ならば当たり前に起こることだ。

そこで踏みとどまって考えられる大人の度量はとても

大きな役割を果たすのだと思う。

ただ否定だけされたと感じた子どもは、その後どんな大人に

なってゆくだろうか。

                                                              

ギャンブルにおぼれる親、アル中の親、自分本位な親、

様々な環境で子は育つのだろう。

親子という、一生つきまとう関係である以上、

それは、子自身の問題でもある。

時間が解決してくれる問題。 時間が経っても解決しない問題。

そこから学ぶものが掘り出しもののように必ずあるはずだ。

                                                                 

                                                              

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手放す

 潮時 というものがあるように、

手放す時 は来るものだ。

何かを得ると何かを手放す。

人間の体や生態系のしくみからしてそうだし。

食べて、出る。 お金なら→使って(出して)、入る。

なんでも、ためすぎるとどこかでツケを払わされると思う。

循環していくことが自然の流れに沿っていて、いい。

                                                                   

本意でない、ふいになにか大きな損失を被ると(天災以外に)、

理性で考え、何かのメッセージだと捉えるのが、いい。

                                                                       

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希望

 希望。 辞書を引くと、

①「こいねがうこと。実現することを待ち望むこと。また、

その気持ち。のぞみ。願望。」

②「将来への明るい見通し。可能性。見込み。」

とある。

ふるさと北海道の高校野球チーム、駒大苫小牧。

今年の夏の甲子園が近づくと、そのチームの活躍を

待ち望み、わくわくしていた。

                                                                     

今はその思いが断ち切られ、直後はどうしようもない無力感に

おそわれ、気分を切り替えるのにしばらくかかった。

(このような負の感情は当の野球関係者たちにはプレッシャー

が増すし、いい迷惑だろうが)

そう、駒大苫小牧の勝利に ”希望” を持っていたのだ。

なぜそんなに駒大苫小牧にこだわる??

それは身近に感じる ”希望” にほかならないのだ。

                                                               

成長期にある子供がいる人たちは、その子どもに希望を持つ。

そうでない人たちは別なところに希望を求める。

人は希望がないと生きにくい。

希望があるから生きられるのかもしれない。

現在でなく、近い将来に実現したいとこいねがうもの。

それが自分のなかにあるものだと実現しやすいけど、

人に、第3者に求めようとするとたちまち、岩に打たれた

波のように自らにはねかえってくる。

                                                             

活躍がいい効果につながり、勝利すると

うれしい。これも駒大の香田監督の、生徒の(人間の)

機微に通じた指導があってのもの。

微細な気配の感じ取りや、謙虚な考え方がその根源にある。

どんな結果も、意味のあるものだ。

意味のない結末などはない。                                                            

今はただ、私の一個人の感情の執着でなく、たとえば

このチームはこれを糧に将来にまた花を咲かすことができるように、

日々歩んでいくだけだ。

(こうやって書くことで吐き出さないと

自分の感情のやり場がないのも事実なのだが・・・)

 

                                                                   

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あとをひく美味しさ

 山下達郎の 「さよなら夏の日♪」 をiTunesで聴いていたら

途方もない安定感におそわれる。

思わず、続いて他の曲も聴く。この声といい曲調の特徴といい、

安心して聴いていられる。 一流だなぁ とほんとに思う。

ガラスの少年♪のメロディなんて、琴線に触れる触れる。

竹内まりやの声、曲も(アレンジは当然)同質だと思うのだけれど、

曲を聴いたあとは、質のいい小説を読んだ時のあと味に似ている。

                                                              

ところで最近、見聞きしたもので印象に残った言葉。

「老人の死は悲劇ではない」

「Ain't no money thing from back account.」

                                                            

 「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」

→「抱擁の時、抱擁を遠ざける時

  求める時、失うとき

  保つ時、放つ時

  裂く時、縫う時

  黙する時、語る時

  愛する時、憎む時

  戦いの時、平和の時。」

       ~旧約聖書 「コヘレトの言葉」より~

                                                            

こころが動いているといつも忙しい。

何気なく通り過ぎてゆくことがらも、味わい深く感じる。

                                                          

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随想

「病室から出た廊下のつきあたり

窓から見える夜の電車あかり

ゴーッ カーッ   走り去る遠い音

いつもそれを眺めていたっけ

あの電車に乗ったなら うちへ運んでくれるかな

帰ってもいいかな

帰りたいけど帰れないんだな

                                                                  

その日診察室のドアから入ってきた 赤く目を腫らした父と母

うつむいた目に 視界はゆるゆるゆらめいた

はりつめていた寂しさと 少しのうらみとあきらめと

                                                           

遠いあの日を思い出す

つながった命 

ありがとう」

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死ぬまで植え続ける種

 最近の私は何かにつけ、細部までこだわりがつきまとい、

人と対応するにも、このあたりで、という、おそらくはそれまで

自然に区切りをつけられたことまでも、どこまで拘ればいいのかが

神経症なほどわからなくなっていた。

何年もの積み重ねで、知らずに変な癖がついてしまっていたようだ。

                                                             

この4月から6月半ばまでの間に夫の仕事の関係で、

合計2週間ほど韓国・ソウルに滞在する機会があった。

今までは観光客として入国してばかりで、今回初めて、

「生活者」として(多少大袈裟ではあるが)、滞在したのだ。

                                                                

そんな中で、ポイントとなる種が大きく二つ、私の中で開花

し始めた。                                                                  

まずは、食事事情。

近所のスーパーで買い物をして、簡単な自炊もどき(お湯を沸かして

レトルト食品を温める、ゆで卵をつくる、パックご飯を

レンジでチンする等)をしながら、あとは外に食べに行くなどして

(外食をしても一人600円程度)過ごしていた。

韓国では飲食店でメニューを注文しても必ず付け合せに

キムチや前菜的なちょっとした野菜などが3~4種類が

ついてくる(無料、おかわり自由)ので、それだけで満足感があるのだ。

                                                                       

あとは目から入ってくる色彩の情報で、脳は満足感で満たされる。

キムチの赤、野菜の緑、ごはんの白、ぜんまいやキノコ類の黒。。。

全体には少しの量でも一回に色々な種類を摂ることができるし、

醗酵食品やカプサイシン、スープに入っているコラーゲンを

摂取できるので健康・美容にはもってこい。

しかも低カロリーでヘルシー。

                                                         

                                                               

食事には”調和”が重要と気がついたのである。

ことさら五感を満たす色彩が、満腹感に密接に関係している。

なんてすばらしいのだ、韓国フード。ブラボー。

(もちろんしつこい宿便などあっという間に体の中から出て行きました)

                                                          

そして2点目。

韓国人のケンチャナヨ(気にしない、大丈夫大丈夫!)精神。

なんだか気持ちがスーッと軽くなった。

そうか、私はどっちでもいいことに、気を取られすぎていたらしい。

私の範疇ではないことにまで足を突っ込んでいた。

まわりはきっとウザかったに違いない。  

                                                          

                                

ソウルの地図で事前に調べ、インターネットで検索し、

夫に教えてもらい、地下鉄のマップ片手に一人でバス、

地下鉄を乗り継いで街を歩いてみた。

言葉も知らないのにお店に入って試着までして、

あげくの果てには「カッカ チュセヨ。。」(負けてくださいな)

と値段交渉。

おもしろかった。

やり取りがリズミカルで、相手はプロで、寛大だった。

 

                           

今回のソウル滞在で学んだこと。

大好きな、尊敬するキムさんに10年ぶりに再会できたことも

大きな喜びだった。

そのキムさんが語っていたこと。「人間は死ぬまで勉強していかなければ

ならないと思います」と。 

ガツーンときた。 そうだった。その通りだと思います。

わずかな期間の韓国滞在と、日本での一人暮らしで再発見した、

”人に寄りかからない”で自主的にやること。

私にとって大きな収穫となった2ヶ月半であった。

感謝。

                                                     

                                                            

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真の達成感

真の達成感や充実感は、

多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、

常に失意と絶望が隣り合わせに存在している。

  (雑誌 「Goethe」 村上 龍)

                                                

                                                                                 

 この意味するところを実感を持って理解したのは

ここ1,2年のことである。

自ら計画し、行動を起こし、あとで省みてみる。

真の達成感や充実感を得たいのなら、

その代償ともいえるものの存在を 忘れてはならないし、

それで獲得した充実感ならば

その先の人生を歩む助けにきっとなる。

 真に達成感や充実感を獲得した人をみると

その裏の影の濃さに頭が下がる。                                                      

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旅からもらうエネルギー

 少し前まで、自分が観た映画や読んだ本をあまり人に

お勧めしないほうだった。 

けれど今は考えが変わってきた。 毎日生まれ変わり

その日のエネルギーをもらい、日々の考えが変化していくのは

しごく当然と思えるようになった。 

(根源的な考えの軸とは別な意味で)

元来、ガンコなので、変更を受け入れられない頑なな考えを、

旅をすることで知らず知らず鍛えられ、教わってきた。

                                                                      

よかった!と思う本や映画、人との出会いを

言葉で伝えることはいいじゃないか! 

と思えるようになった。

受け止めた相手が押し付けられたと感じても否定しても、

それはそれでいいのではないか!

相手はその人なりのやり方で消化していくのだから。

ただ、その人のやり方を身につけているのかどうかは、

やはり精神的に自立して生きているのかどうかが出てくる。

                                                                

人からもらった価値観で生きていくのは苦しい。

きちんと自分の足で歩いて自分なりの世界観を示すことに

躊躇したり恥じたりすることこそ、自分に対する裏切りになってしまう。

                                                              

昨日の自分よりも今日の自分が勝っている、

一日の終わりに、そう思えるのがいい。 

                                                              

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いいことば

他人が、自分のことを
どう思うかなんて
気にしないことです。


気にしたところで、
相手の気持ちを
コントロールすることなんて
できないのですから。

(何かを心配しているときにそっと読む本、アン・ウィルソン・シェイフ)

                                                           

鈴木ヒロミツさんは、余命3ヶ月を宣告されて

死を目の前にして、

人生は楽しむためにあるのだと 思ったそうです。

延命治療を拒否して、最期のときを

たいせつな家族と過ごした。

5月14日に生前最後のメッセージを本にしたものが

出版されるとのこと。

                                                        

胸をうたれました。

いずれ必ずおとずれる死 を意識していると、

今この肉体を持って生きている ”いま” という時は

いっときも無駄ではないと思うのだ。

だから、くよくよしない。

ひとが自分のことをどう思おうと、堂々と自分のやり方で

やり通すのだ。

それが与えてもらった命の恩返し と思う。

                                                                

私の場合は、旅をしていろいろと教わる。

自分の足で歩いて、見て、匂いや感触や風を感じて。

間違えても疲れても、自分の怠惰や甘えに打ち克つ練習

と思って。

そういえばヨガもその訓練なのかもしれない。

誰が何と言おうと、気にしたところで

相手をコントロールしようなんて傲慢なことでしょう。

                                                               

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中心自己的

 自己中心的になるのではなく、

”中心” を ”自己”に置く。

いつか恩師に言われた言葉。

いまもふと、その言葉の意味をかみしめてみることがある。

あしもとがおぼつかなく、のらりくらりとしているときに、

手綱を引き締めるような思いのする言葉だ。

                                                                  

 かなり前に、面白いことがあった。

書店にならぶ平積みになった最新刊のなかから

手にとって衝動的に買った本がある。

何を思ったか、ペラペラとめくっただけで他の読み終わった本と

一緒に古本屋へ売ってしまった。

数日後、その本はうちの配偶者によって古本屋から

買われてきた。(同じ本だが、私が売ったそれとは違うとは思うが)

                                                                

そしていまそれを読んでいる。

読む時がきた。 ときどき、家の本棚を眺めていて

目が合った本を読む。

なるほど、それは確かに今の自分に必要な言葉たちが

収まっていた。

衝動買いしたその時に最新刊だった本。

私はその ”旬” を買ったのだろう。

そしていまここに、一度離れてまた戻ってきた。

                                                             

旬でもベストセラーでも、自分にとって意味のないものは

ここにないはずだ。

なんの因果か、戻ってきたその本をこれからも

”そのとき” が来たら読むのだろう。

その本のタイトルは 「人生の地図」。

中心を、自己に置く。

その意味を咀嚼し見つめなおしてみるのも

ときにはいい。

言ってくれた人の言葉こそ何よりのプレゼントだと思う。

                                                              

                                                           

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ふろしきのこと 

 ふろしきのことを書いたら、つい最近、

そのふろしきが私のところへ舞い降りた。

ふろしき好きとはだれにも言っていないのに。

事情はよくわからないが、職場の上司が、皆に

あるカタログからひとつ商品を無料でもらえるので選べ

とうのである。

見たら膨大な数の商品の中にふろしきもあるではないか!

迷わず選んだ。

                                                       

まあ、偶然舞い降りたLuckだったが、ありがたく頂戴しておこう。

わけがわからないけど、ありがとね~。

                                                           

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ブーメラン

 先月の3月でブログを書き始めて1年がたちました。

とは言っても月に何度かしか更新できていないけれど。。

4月。 桜が芽吹きはじめたこのごろ。

また今年も会えましたね、という、うれしい気持ちになります。

このあいだお客様が、桜には ”姓” があるとおっしゃっていた。

桜には以前から特別な想いを持っていたけれど、

やはりそうか、と納得したものだ。

                                                                        

 さて、

悲しいことに、家の前の駐車場で車のタイヤに釘が打たれて

パンクさせられていたことが判明。

一目で明らかに人為的な作用がなされたとわかる打たれ方。

スクリュータイプのピカピカの新品の釘が、タイヤの溝の真上から

貫通していました。

知らずに高速道路を乗っていたら大事故を招きかねませんでした。

もっと言えば、事故で人が死んでいても不思議ではない。

                                                                 

                                                                 

覚悟を知らない、と思う。

誰かの何かを傷つけるということは、必ずどこかでそれ以上の

苦痛を味わうことになるということ。

私はかつて、5千円のために人と争い、なかば無理やり

奪い取ったという、恥ずかしくもなさけない失態をしでかした為に、

その後、自分に降りかかった災難にその100倍近い金額の代償を

払うことになりました。

                                                                       

                                                               

自然発生的ではないことに手出しをしたら、

かならずそれはブーメランのように自分のもとに戻ってくる。

良いことも悪いことも自分がやったことは

自分にかえってくる。

                                                                

「おてんとうさまが見ているよ」

昔はどこの家でも親や祖父母にたしなめられた言葉。

私がしなくても、おてんとうさまが

見ているのですよ。

自分のこころにも言い聞かせる気づきにしよう。

                                                         

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ピュア

 その人をみていてふと感じたことを言ってみたり、

その人の前でなぜか言いたくなったことを口にすると、

まかりまちがって図星だったとき、その人は自分でちゃんと変えてくる。

そんなとき、人間は自分の傷を自分で治す自然治癒力が備わっている

と、あらためて思わされる瞬間だ。

こちらが何も手伝わなくても、その時にいちばん自分で問題だと

思っている事柄に、自分から立ち向かおうとする。

そして解決に向けて力を出す。

                                                                    

                                                        

そういうものは、生きた人間同士の間のやりとりでしか成立しない

醍醐味だ。

もしかしたら、それを言ってもらいたくてその人は

その場に運ばれてきたり、居合わせる機会を自ら選んで

仕掛けているのではないかと思ったりする。

                                                               

命の炎を燃やすように、命のやりとりをする。

そういう、精神の躍動というか、魂の躍動を見せてもらえると

人のこころのピュアさが透けて見える。

                                                               

                                                          

魂の躍動。

それで思い出すのは 鼓童。

鼓童のことは、文章にできない。

いちばん書きたくていちばん世の中に知ってもらいたい表現者

なのに、まるでいちばん好きな人には話しかけられない

小学生の子どもみたいな気持ちになる。

                                                       

「どんなにつらい話でも、昼すれば、たいしたことない」

 佐賀のがばいばあちゃんのことばに、ぐっときた。

                                                                    

夜に考えず、明日の朝にしよう、と思ったことは、

夢になって示唆されることがある。

今じゃあ、それが楽しみで睡眠に入るようなときもある。

朝、目覚めて、日の光を浴びると

新しくなっている瞬間がある。

この世で取る年とはちがう側で。

                                                                   

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888888人目

 この前のブログを更新してから、ふろしきつながりでつらつらと

カンボジアのことを思い出していたら、昨日の夜にNHK教育で

アンコールワットにまつわる放送があったのでびっくりして、見た。

思考のつながりの背景にはやはりなにか作用していると、

感じずにはいられない。

NHK教育TVよ。 なぜ、今、アンコールワット???

この頃そういうことが多くある。

いやきっと、誰もがそうなのだろう。気にとめないだけで。

                                                            

                                                       

 今日は、朱鷺メッセというコンベンションセンターへ、

建築家 安藤忠雄氏の講演会を聴きに行った。

新潟も4月1日から政令指定都市となるため、

市の主催で招いた講演会に、運良く参加できた。

朱鷺メッセは、信濃川に沿って建つ巨大複合施設。

全面ガラス張りの通路から外に出ると、すぐそこに信濃川の

流れを眺めながら散策できる。

                      

                                      

安藤忠雄さんのお話はおもしろかった。

建築の話はもちろんのこと、女性は子供が大きくなって40を過ぎると

遊ぶことばかり考えるし(笑) ネットワークは広いけれども、

男性はといえばネットワークは会社関係だけだと。

だから男は定年するとなにもなくなってしまう、等等、関西弁で

流れるようにアドリブを交えた語りはあっという間の1時間半だった。

                                                               

                                                              

膨大な数の人たちと出会ってきた安藤さんのこのような話には

リアリティがあり、ズバリつっこむようなところはさすが大阪人やなぁと。 

話し方にリズムとテンポと引き際の鋭さがあり、飽きさせない。

60代も半ばになる安藤さんの生きる姿勢はすこしも

衰えなど感じず、安住とか保守という匂いはまったくしない。

常に挑戦者であり、冒険と夢を追い、同時に同じ量のリスクも

請け負う胆の深さを思わずにはいられなかった。

                                                               

                                                            

ところでタイトルの888888。

さっきたまたま開いたサイトの訪問者数が、888,888人目だった。

よくあることではなさそうな数字なので記念に覚えておこうと。

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ふろしきに学ぶ

 いま何がほしいかといわれると即答できるのが、ふろしき。

私が習っているステンドグラスでも製作過程で運ぶ際には日需品で、

ひじょうに便利なものだと痛感する。

どんないびつな形でも文句ひとつつけず自分のかたちを相手に

合わせて自由自在に変える臨機応変、かつ柔軟なふろしき。

素晴らしき、ふろしき。

この柔軟な立ち居振る舞い(?)のふろしきに教えられてはっとした。

                     

                                           

今はペットボトルの再生利用で作られたふろしきもあるようで。

大判ものだとなお重宝する。                                                               

カンボジアではクロマーとよばれる布があって

(カンボジア版ふろしきなるもの)、日よけに首や頭に巻いたり、

汗を拭いたり、収穫した作物を入れたり、赤ちゃんを包んでだっこしたり、

優秀な代物である。

地元製で綿とシルクがあるが、綿が使いやすい。

道行く地元民はだれもが使っていた。

去年、一枚買って帰ってみたが、日焼け防止や冷房対策などに

すごくよかった。 軽くて小さく丸めてバッグに入れていつも持っていた。

20枚くらいは買うべきだった。。。トホホ。 後悔先に立たず。

カンボジア産業のためにも一役買うべきであったよ。

これは物をひとつひとつ大事に使うことを学べといわれているのか。

                                                            

そこで、旅の教訓。 旅先では大胆かつ豪快な気持ちで臨む。

                                                               

                                                       

まだまだ未熟者であった。

まだまだ学ぶことは膨大で、終りなき旅をしている旅人の気持ちで挑もう。

スナフキンのように。

                                                                                                                            

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サンドイッチ

 日暮れ近くに、一歩外へ出ると途端に夏の夕方の匂いがした。

信号待ちで見上げた薄紫の空にはうすぼやけた雲が連なっていた。

夏の雲だ、と思った。 

2月に夏の気配。  

                                                              

 夕暮れ手前に近所まで歩いて買い物に出るのが好きである。

薄暗くなってから日没までの、わずかなこの時間帯が妙に落ち着く。

坂道を下って、コンビニの駐車場を横切って、信号を渡って、てくてく。

好きな匂いと好きな夕日の色。

夕暮れどきのあたためられたアスファルトの匂い。

風の感じ。 遠くの、何かをたたく音。

夕日の色に照らされて、てくてく。

                                                           

薄暗さと日没後の闇のあいだにはさまれたまったりした時間を、

サンドイッチにして一日の終わりにいただく。

けっして誰かと共有しないこの不確かな時間が

好きである。

                                                              

 

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たまゆら

 一日はまたたく間に過ぎる。

一日が30時間くらいあるといいと思う。今から1万年後くらいには

きっと一日はもう少し長くなっているだろう。

その時に私という存在はない。 が、別の存在となって別の

人生を歩んでいるかも、と思うとまたワクワクする。

 それにしてもほんとうに。

毎分毎秒が惜しくて、かつて毎日がこんなに大切だと思ったことはない。

 この頃、人の老いを感じてしまう。 それも、何年も会わないとかめったに会わない人

でなく、よく会う人の、だ。 

何日か見ないうちに確実に老けている。

 もちろん同じ時間が流れているので自分もそうに違いないのだが。

生きとし生けるものの中にプログラムされたメカニズムをまざまざと見せつけられる。

                                                                      

                                    

少し前まではそんなことを感じたことはなかったから

年のせいかな、と思うけど、やはり人を鏡にして

自分のなかで流れている ”時”を感じ取っているのかと思う。

自分で自分の顔は一生見ることができないのは(鏡を使わないと)、

きっと毎分毎秒リアルタイムで老いて行くのを見なくて済むからなのかもしれない。

                                                                 

 かなしみ。

なぜか人の老いによりそうと、”かなしみ” という言葉が浮かぶ。

                                                              

                     

 

                                  

                   

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入り口

 いつか夢で見た場面にそのまま遭遇したのは、

3年ほど前に行ったタイのホアヒンでだった。

夢では、イタリアはローマの町で出くわしたお店のショーウィンドウ。

ホアヒンで見たそのお店はまさに!そっくりそのまんまのそれだった。

お店は、照明の明るさ具合から見た目の細部まで

まったく同じものだったからすぐにピンときた。

「ここに来たことある!・・・・・」

思わず持っていたデジカメを向けてシャッターを押した。

夢の中の映像と同じお店。 なつかしくて、不思議な感覚だった。

                                                                

 ホアヒンに来る前からそのお店があることを知っていたのか、

前に(前世)そこへ来たことがあったのか、本当に予知夢だったのか、

同じようなお店は探せばいくらでもあるのか、わからないが

来るべき場所に来た、という感じだ。

ボワンとした熱気と汗がにじみ出てくる湿度の高い東南アジアの

雨季の暑さ。 なぜか幼い頃の記憶が蘇ってくる。

私が生まれ育った北国の夏は短くて涼しいのに。

                                                                 

小学生の頃、学校から帰ってきて毎日またすぐに遊びに出かけた

夏の午後の夕日の長い影を思い出す。

近所にあった砂利置き場や、公園や帰り道の土の匂い。

向かいの車庫に積み上げられている魚