心と体

体という神秘

 出ました、ついにヨガのクラスでホタルのポーズ。

まったく足が持ち上がりません。

カエルのポーズともいうのかな、両手を腰幅に床に置き、

その横に両足を開いて置き、ひざを曲げて腿の裏に二の腕を押し付けて

両手で体を支え、骨盤とともに足を浮かせ、ひざを伸ばす ってやつです。

股関節の柔軟性がない私には他にも出来ないポーズが多々あり、

もちろん180度の開脚でペタンと体を前に~

なんて果てしない憧れで。

                                                            

ヨガを始めて一年半。 だいぶ柔軟にはなったが、

人には生まれつき体の柔らかい人と硬い人がいるのだろうか?

体の柔らかい人やヨガの本で見本になるポーズを見ると

人はここまで体が曲がる(?)、開く、ひねることが可能なんだ、

と驚くばかり。

ヨガをやるまで体の硬いままろくに運動もしてこなかったカラダには

本当にこたえる。

体の根幹や筋力が鍛えられているのは実感できるのに。

同時に、このキツいアシュタンガヨガのおかげで精神力と忍耐力も

鍛えられてきた。

毎日の日常を生きるのに精神的に随分と助けになっていると思っている。

それは必然と、精神コントロールや自信とか、安定性だとか、

集中力に繋がっているように思えてならない。

                                                             

人間一人の体の血管すべての長さは、地球2週半にもなるという。

旅をするなら気も遠くなるような距離だ。

それが自分の体のなかにあるなんて本当に不思議。

旅は、自分の血管の長さをたどっているようだ。

                                                               

体を前屈させる時、ひねる時、自分の体が柔らかいとイメージ

することも重要な要素になる(十分なストレッチと正しい呼吸法と

丹田に力を入れて重心を意識することが前提)。

私にとっては、体を鍛え、体と向き合う方法はヨガだけれど、

やればやるほどカラダは奥が深いと思う。                      

                                           

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人生の必要

 昨夜BSで放送された

「子どもがほしい 30代後半の英国女性たちの選択」

に見入ってしまった。

パートナーがいなくても自分の子どもを持ち、育てたい、

と熱望するイギリスの30代後半の独身女性を、前編・後編に分けて

何人かの選択を取り上げたもの。 

婚姻関係のない相手に精子を提供してもらい、

人工授精または体外受精で子どもをもうける。

仕事も住む家も車もある。プライベートも楽しんでいる。

理解ある親・兄弟姉妹、友人もそばにいる。

                                                             

39歳のAさんは、長年いい友達として付き合いのある男性から

自分の精子を提供してもいいという申し出を受けることにした。

婚姻関係も恋愛関係も結ぶ意志はない。

恋愛関係でなく体外受精にトライし、運よく一回目の受精で

子どもを授かった。 

その友人とは離れて暮らしている。

40代後半になって(子どもが産めなくなって)から、

産んでおけばよかったと後悔したくなかった、と言う。

                                                     

                                                     34歳のBさんは、病院で妊娠可能年齢を調べるが、

彼女の体は40代の女性に近いくらい可能時期に

猶予がないことを知り、恋人もいないBさんはショックを受ける。

お見合いパーティーに参加するが、なかなかうまくいかない。

そんな矢先にある男性と知り合い、付き合って一年、

なんと妊娠がわかる。

          

                                               

35歳のCさんは、自分がお腹を痛めて産むのでなく

世の中のひどい状況に置かれている子どもを

養子として引き取って、自分の子どもとして

愛情を注ぎ育てたい、という選択をした。

父親がいなくても愛情をたっぷり注いで育てる自信がある、と。 

が、紹介所からは、身近に手本となる大人の男性が

いないという理由で決まりかけた養子縁組は破談になる。

でも彼女は決してあきらめないという。

挑戦し続けると。

                                                              

Dさんは精子ドナーバンク(驚いたことに、ネット販売もある!)

や精子ドナー募集の張り紙を自ら作成し、

自分と同じアフリカ系民族の血をひく男性の

精子を希望している。

何よりも自分のルーツを大切にしたいのだという。

                                                              

35歳のEさんは、精子ドナーバンクで紹介を受けて

数回受精をトライしたが未だ妊娠はしていない。

すでに多額の費用をかけている。

大家族で、自分の兄弟姉妹は9人、甥・姪は30人ほど。

最近付い始めた離婚暦のある子持ちの男性とは、

今後付き合いが続くかわからないし、一度人工授精を

打ち切るとまた始めるのにはたいへんな時間がかかる

との理由で、お互いの理解のもと人工授精は続けている。

                                                             

39歳のFさんは、人工授精ですでに女の子を一人

授かっている。自分と同じ金髪と青い瞳なのが嬉しいという。

二人目も希望し、運よく授かり帝王切開。 赤い髪の女の子。

                                                            

35歳のGさんは、これまで何度かの出会い、別れを

繰り返しているうちに今に至っている。

人生のパートナーに求める理想は高い。

                                                               

                                                           

うーん・・・・ 考える壺の深いところにはまってしまった。。

人工授精。。。これでも神への冒涜だといえるのか。。。

受精に成功するとはそれもまた授かりものに違いはない。

いろいろな人生のあり方をみた。

今の日本では独身女性は人工授精を受けることは

許されていない。

少子高齢化、日本。

いずれ日本もそんな選択をせまられる時期が来るのだろうか。

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マンダラ

ステンドグラスの作品をつくるのに最初の作業は、

型紙に、出来上がりのガラスの色をイメージして

色鉛筆で色を塗る。

それから型紙通りにはさみで型を切る。

                                                                              

その時に選ぶ色はその時の自分の心を表している。

選ぶ色はどうしても自分の好きな系統の色になってしまうのだが、

それも色彩心理が正直に表れる。

色鉛筆で色を塗っているとき、不思議に心が落ち着いていく。

そこで、ネット検索でなんとなく調べていて行き着いたのは

「心を癒すマンダラ塗り絵」

というのがあった。

子供向けも大人向けもある。

                                                                

ちょっと大きな書店では、大人の塗り絵コーナーがある。

本屋に行くと今現在の世の中の動きが見える。

(流行り廃りも早いが、)

注目させたり需要の大きいコーナーが

いちばん目につく場所に設けられている。

自分を励ます類の本が膨大な数で山積みになっている。                                                              

                                                      

                                                             

頭痛がする とか吐き気がするとか気分が悪いとか、

腹がたってしょうがない、

そんなとき、マンダラの図柄に色を塗ってみると

いいかもしれない。

自分の心の心象風景が表現されてスーッと楽になる。

人は生まれてから老いて死ぬまで、

自分の心象風景の中で成長し経験していく存在である。

                                                                  

                                                            

方角(東西南北)や上下左右、季節など、

この世には四つのものが多数ある。

四はマンダラを意味するともいわれるけれど。

それにしてもこの頃マンダラのことを考えていたら、

今日まさに読んだ本の中にマンダラという言葉が出てきた。

    「オカルト」  田口ランディ 著

人々は、どの入り口から入ってどこへ行こうとしているのか。

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旅立ち

 霊界の宣伝マン称する俳優 丹波哲郎さんがとうとう、

霊界へと旅立った。

なんだろう。じめじめした悲しさがない。

テレビで一報を知ったときにまず、”霊界に帰った”のだな、という印象を

強く持った。  眠るようにして逝ったのだという。

自分の一生を全うしてこのように逝けることはなんて理想的なんだろう。

こんなにもすがすがしい、人の”死”というものがあるのだ。

死とは生まれる前の世界に帰ることだろう。

私も丹波さんとほぼ同じような死生観を持っている者として、このような最期を

むかえられるような生き方をしたいと思っている。

私が霊界に興味を持ったのが35歳のころ。

以来、”死”とは、こわいものでも苦しいものでも悲しいものでもなくなった。

丹波哲郎さんが言っていたように、電車を乗り換えるようなもの。

世間の常識とは逆に、私はこちら(生きている世界)のほうが仮の住まいのような気がする。

何かの縁であちらの世界から、うちの家庭にピンポイントで産まれて、

こちらで様々な体験をし、喜怒哀楽、あらゆる感情を

味わい、また旅立つ。

旅立った後の世界はあるのかないのか、

はたまた、覚えていないのか、わからないが

生命は死んで終わりではないのだと、なんとなく信じて疑わないのである。

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中学生という生き者たち

 また 中学生による親への傷害事件が報道された。

自分の部屋に包丁を持ち出し、母親が来るのを待ち構えていたという。

「中学生日記」 とういう番組があるくらいなのだから、

思春期に入ったその時期はそれまでの子供時代とは

まったく違った人格の人間だと思って付き合っていかなければならない。

 母親から自立しようとし始めるのは当たり前の成長過程だ。この事件はむしろ

母親に非があると思えてならない。

親子の間に何があったか知らないが、子の自立心を妨げる行為のほうが有害で、

そちらのほうが

魂の観点から見ると犯罪なのだと思うのだが。

 ニュースやマスコミでは事件の結果でしか報道されないことが多いが、

表面でしかものごとを判断できない人たちを助長するのもまた、

マスコミの報道の仕方のように感じる。

もしかしてこういう事件の根底にあるものをちゃんと見据えているのは、

同じ中学生たちなのかもしれない、と思う。

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ロープウェイとバースデーケーキと事故による省察

 その日は前の晩から続いていた頭痛が治らなくて、

頭痛薬を飲んでしてもいっこうにとれない、首の付け根の奥からくる

鈍い痛みとともに一日を過ごすことになった。

 母の誕生日。本人は朝から仕事で留守にしていたので

父と二人、車で2時間ほどの山へロープウェイに乗るために出かけた。                                               

 

 年に何度か私は一人で実家に短期滞在をし、父と母と三人で

ちょっとした小旅行にでかけている。 かれこれ8年くらいになる。

 近場のロープウェイは旅行というのではないけれど、

10代から家業であった自営業を継いだ父は、50年以上も休むことなく、

どこへも旅行などしたことのない人で、60歳を越してからやっと

時間の余裕を持つことができたわけで、なんせいくら近くても

行ったためしがないのだから、”灯台下暗し” から始めるのも無理もない。

                                                                                    

  頭痛の鈍い痛みに支配された気分とはうらはらに、

すばらしくよく晴れ上がった清々しい天気だった。

それは、陽と陰、正と負、の表裏一体を象徴していることを翌日に知らされるとは

思いもよらなかった。

 翌日は母のバースデーケーキを買いに父の車を借りて、

その足で仕事を昼一で上がるという母を迎えに行った。

      

 そして母を乗せた街中の道で交通事故に遭った。 正確には事故を起こした。

とたんに雨が降り出した。

よく通るとはいえ、いつもの経路ならその道は決して通ることがない道。

しかも一時停止を怠ってしまったために起こった。

 左から来た車に追突されてしまったのだ。

交差点に出てしまった以上、とっさにとったのは、

横から視覚に入ってきた車を避けようと思い切りアクセルを踏み込むという行動だった。

しかし間に合わなかった。

認識→判断→行動。 この間、時間にして2秒くらいだろう。

非常に困った話だが、警戒もなく止まるつもりもないときには

前に突き進んでしまうものだ。

 なぜ一時停止線がこちら側に引かれていたにもかかわらず、

しなかったのか。 気のゆるみ・・・

 魂が体に入ってなかったからだ。

     

 幸いにして、相手も母も怪我ひとつなく、お互いの車がものすごい音とともに

へこんだことで済んだ。 相手の方は、私が取り乱したことと、自分がひとり

観光で訪れた地でレンタカーを借りた直後だったことに

ショックを処理し切れなかったのか、ただおろおろと、しかも淡々と現実に向き合い、

私に責める言葉をひとことも発しなかった。 それが救いだった。                                                                  

 

 若い青年に見えた。  言ってみれば事故に遭わされたのは彼なのに、

怒っているようでもなく、こちらを責めるでも、恨んでるようにも見えなかった。

なんだか、かなしげだった。

 あれから2年半が過ぎ、代償に支払った高額な修理代も心の痛みも、

薄れてきた今になって思うのは、

あの時の相手の態度に救われたのかもしれないと。                                                        

 事故からほどなく、覇気を無くしすっかり気落ちしていた時に

出会った言葉にはっとして、急に胸がスーッと軽くなった。

ある雑誌の、読者からの問いに回答者が答えるという相談コーナー。

 奇しくもそれは同じように交通事故に遭った女性が心に傷を負って

現実に耐えられずに相談をしたケースだった。                                                                  

 

 「出来事に偶然はないのです。あなたとその相手の方はその時の波長が

合ってしまった。だから相手の方にも呼び起こす何らかの波動があったのです」

というようなスピリチュアルな答えだった。 

                                                                              

                                                                             それまでは、相手と親に対して申し訳なかった、という気持ちがずっとあった。

なので簡単に落ち込んでいた。

でもこのスピリチアルな言葉に出会ってからは、

 「自分以外の他者の問題を引き受けることはできない、それは

この世でやってはいけないことのひとつだ」 と、考えるようになった。

   本当に、この世に不必要なことってないんだなぁ と思う。

だってその交通事故がなければ傲慢な私のまま、気が付かなかったかもしれないのだ。   

大切なことに近づくには、ある種の禊(みそぎ)みたいなものが

必要な場合もあるのだとわかる。                                                                                  

  

 運転には心を置き忘れずに気合いを入れている私だ。       

                                                                                          

                                                                                    

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食べ物のこと ヨガのこと

ほんの半年ほど前まで私は食べ物のことを”深く考えたこと”がなかった。

つまり、今食べたものが自分の体の中で

どのように作用し、血肉になってゆくか、ということ。

基本的には健康オタク。

でもスーパーや市場に売っている食材で家庭料理を作ればそれで

食生活は普通に営まれていると思っていた。

スナック菓子などのジャンクフードはめったに食べるほうではないが、

身体に及ぼす影響をまじめに考え向き合ったことはなかった。

 

昨年秋からヨガを始めた。

自分の身体をよく観察することで、意識が変わってきた。

そういえば、それまで何年間はイライラしやすく

持久力がまったく弱かった。

性格だと思っていた。

でも自らの身体がいったい何で構成されているのかを強く意識することで、

食べ物に対する認識が変わった。

それからというもの、口にしたものが身体の中で

確実に栄養になることが感じられるようになった。

食べれられるなら何でもいい、のではないのだ。

以下はインドの哲学を引用

『人間は三つの要素、つまり”体” ”心” ”精神”の

バランスが取れていてこそ健康だとされる。

”体”とは言うまでもなく肉体のことで、快楽や痛みを伴う。

”心”とは現実を映す鏡のようなもの。

たとえば一緒にいる相手によって心の状態はよくも悪くも変わり、

お香を焚いて気持ちのいい香りに包まれれば心は穏やかな状態になる。

”精神”とはその人がもともと持っている霊的なもので、

”魂”と置き換えられるもの。

目に見える肉体とは離れたところにあるとされる。

体と心は密接に関係していて、体に不調があれば心も健康とは言えない。

さらに言えば、精神は、体と心とは相反する関係にあり、

前者が安楽を求めると後者の力は衰える。

精神を向上させるために、修行者たちが真冬の滝に打たれたり

断食したりと、肉体を酷使するのはそのためだ・・・・』

そして根源的な人間の身体の構成は水と塩(汗)、

海の成分と同じじゃあないですか!

太古の昔、ヒトは海から来たという真実をこの身体の中に

しっかりと残している。

自然の摂理は変わらない。

変わったのは人間のほうなのだ。

今日読んだ本

『できればムカつかずに生きたい』 田口ランディ

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