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2009年2月

遅れて来た感動

 読みたいと思っている本が山ほどある。

全部を単行本で買ったりなどできないので(べらぼうな金額になってしまう)

たいていは図書館のHPで検索して、あれば借りたり、

貸し出し中ならば予約を申し込む。

出版直後の人気小説などは、多い時には300人待ち、という

すさまじい状態にもなる。                                                       

順番が回ってくるのは数ヵ月後。

あたりまえだがその時読みたい!と思っていた情熱と

テンションの高さはだいぶ落ちている。

                                                                 

何年も前に出た本ならば、古本屋で文庫本になっているのを

探したりして、そこで、以前からつねづね読みたいと思っていて、

機会を逃していた本に出会うと、

「なんて傑作なんだ!」 と、今さらながら世の中の感動と喝采から

かなり遅れて、ひとり万歳をしたくなる。

                                                        

偶然目についた本を読んで、テンションがあがったときなど、

「こんなすばらしい本をなぜ今まで自分は知らずにいたのか!・・・」

などと、ひとりハイテンションの渦中、最終ページの初版年を確認して、

これを執筆した著者、出版にかかわった人々の思いの強さと

重さに圧倒されてしまう。

                                                       

映画も然り。

気になった作品(本も映画も)は、事前にAmazon.comで作品

レビューをみたり、情報収集をしてから借りる。

そうしていると、一度気になって、しかもレビューや業界人の

評価に心動かされると、いてもたってもいられなくなって

即行。 借りに行く。

(動物占いではチーターなので、瞬発力勝負)

                                                          

レビューなどは個人の価値観で感じ方が違ってくるので、

参考にはするけれど、自分の感じ方に向き合うようにしている。

どんな作品も、自分の心象風景を見ていることに、後で気づく。

自分がどんな風に育ってきたか、どんな環境で生きてどんな考えを

持っているかで、当然ながら感想はちがう。

                                                        

私は、人は人生の中でなにを見てきたか、何を感じてきたか

は、その人の持つ雰囲気や選ぶ言葉におのずと表れる

と思っているので、感性のアンテナは常に高くしていたい

と思う。  

                                                             

 後になって、その時のあたりまえのように流してきた学生時代

の出来事や感覚が、どんなに有難かったかを

思い知ることが多くなった。(年を重ねて)

その質感みたいなものが今、哀しみとなって、胸を熱く下っていくのを

ささいな局面で感じている。

                                                           

                                                           

                                                            

                                                         

                                                    

                                                                  

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子供の頃の重要期間

 脳機能には 臨界期があるのだそうです。

(前回のブログの続きー)

もともと脳の発達には 非常に重要な、クリティカルな期間

(critical period)があり、日本語では「臨界期」(無理やり日本語に

すると)と呼ぶことが多い。

この期間での環境や経験は脳のはたらきと構造に

大きな影響をもたらし、その影響は一生涯続く(どこかの

保険の売り文句?!)ことも多い。

                                                          

その最重要期というのは子供の頃に集中していて、

生後から4歳とか8歳、あるいは思春期に入る12歳頃までが

臨界期であることがほとんどらしい。

何らかの原因で、言語の臨界期に「普通の環境」に育たないと

―つまり言語に無縁かそれに近い環境で育つと―

言語能力は生涯にわたって未熟なままになってしまう。 

                                                            

ほとんどすべての脳機能には、その獲得・発達にとって

重要な期間が幼少期にあり、その期間での環境は生涯に

わたって脳機能に影響を及ぼすことになりうるらしく、

その”臨界期”が12歳くらいまでだという。

                                                       

ほんの少しだけ本から抜粋させてもらいましたが、

興味ある人はチェックしてみたらいいと思います。

 親からの愛情と指導を受けつつ、大人や子供同士で

多様な社会関係を繰り広げる環境(普通の環境)

だったか否かで、その後の一生を決定付けてしまう。   

ショッキングではあるけれども、幼少期の重要さが

よくわかる例も。

                                                              

世の中にいろんな人がいる、ということが

どこから出てきたのかがわかるような気がします。。

その人のことを知りたければ、幼い頃のことを聞けば

理解できるのかもしれませんね。

IQ(知能指数)とPQ(前頭連合野の脳力)の関係性も

興味深かった。

                                                             

                                                         

 

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心の理論

 最近気になるのが、モギケンこと茂木健一郎さん専門の

脳科学。

NHK番組「プロフェッショナル」を見てから、モギケンさんから

発せられる言葉に興味津々になった。

(なので茂木さんのブログ「クオリア日記」を拝読している)

                                                                

そこから派生して、たまたま見つけた 

『あぶない脳』  (澤口 俊之 著) 中で

非常に興味深いことが書かれていたし、納得した。

それは、前頭連合野教育こそが、社会性・人間性の

教育の基本であるべきで、戦後の、アメリカに習った

条件付けの教育である行動主義は、社会性の教育に

意味をなさない、というものだ。

                                                           

つまり、何か行動した直後にほめる、罰を与える、

などの、”飴と鞭” の手法が条件付けの教育。

(しかもなるべく「飴」にしてるのが戦後の教育・育児

の方法だったという)

                                                           

心理学用語に、条件付け(conditioning)というのがあるらしい。

これは、「ある行動を繰り返しさせるには、その行動の

直後に報酬(褒美)をあげればよく、逆に、ある行動を

止めさせるには、その直後に罰を与えればよい」という

原理・手法のこと。

                                                       

では前頭連合野とは?

自我であり「心の理論」、つまり、他者の心を理解

できる(推測できる、感情移入できる)能力が

心の理論であるという。

心の理論は前頭連合野のはたらきの一種である。

(上記の本より引用)

                                                            

人間には遺伝的に脳には情報が組み込まれているので

普通に生活していれば、この前頭連合野は発達していく

ということだが、今までの教育が何十年も何百年も

同じで正しい(はずなどないのだが)、という思い込みを、

疑う必要があるとやはり思わなければ危険だ。

                                                             

最近の若者がバスや電車の中で平気で化粧をしたり、

携帯で私生活を大声で話したり、学校の、条件付け教育

のなかでは ”いい子” なのに放課後は全く別人になる

そのいい子が急にキレるとか、そういう現象が起きているのは、

それが戦後の行動主義教育の結果なのだと納得した。

                                                           

かなしいかな、「心の理論」教育をされていない親や教師が

育てる子どもなので、その子どもたちの心の理論が

発達しにくいのも合点がいく。

そのことに気づき始めた大人たちがいることも確かで

この国は心の教育に早く切り替えを始めないと、少子化どころか、

社会性のある人間がいなくなる危機に直面するかもしれない。                                                       

                                                           

私はここまで生きてきて、心のやりとりこそ最も大事な

もの(教育)だとつくづく何度でも繰り返し思わされている。

(自分も「心の理論」欠落者だった)

                                                             

                                                          

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泣きのクオリア体験

 「泣く」 ということは、自分の脳内で処理しきれない

ものがあふれ出るということらしいが、

私は最近5年くらい、泣いていない。

(映画やテレビを見て、感動して泣くことは

もちろんあるけれど)

                                                               

それだけ昔より強くなったということなのか、精神的に

引き受け可能な範囲が広くなったということか、

脳内でなんとか解決しようと、私の脳は一所懸命に

働いているらしい。

とにかく、怒られて泣く、とか、怖くて泣くといったことが

ないことに気がついた。

まして、イヤミ、イヤがらせに泣くなんてことは

私にしてみれば、涙がもったいなくて出す気にもならない。

                                                           

3年前、アンコールワットの朝陽を見たときには、

自然と涙があふれてきた。

本物を前にして人間は無力だ。

あのカンボジアの自然、遺跡の佇まいの静謐さ。

初めて目の当たりにする、想像の域を超えたものに

対しては、脳内の情報処理が追いつかない。

                                                         

これから先、生きていくなかで、こういう感動の涙を

流して生きたい。

喜怒哀楽は必要不可欠だけど、”怒”で泣いたりしたくなはい。

子供の頃すぐよく泣いていた理由がわかった。

処理できないことのほうが多すぎるからだ。

                                                             

数年前の夏にさくらんぼ狩りに行った時のこと。

小学生の姪っ子が持ってきたちいさな人形を

預かり、ぶら下げてきた小さなポーチの口にポンと

入れたていた(つもり)のが、気がつけばなくなっていた。

                                                          

探すといえど、広い広いさくらんぼ農園。

辺りは草ぼうぼうの草原。

姪っ子の顔が急速に泣きの表情になりつつあった。

それから一昼夜、私の顔をじっとにらみながら

これ見よがしに、声を張り上げて泣くわ泣くわ、

これでもか、と泣く。

(注意力散漫な私を反省shock。許しておくれ、姪っ子よ)

                                                              

たいした大事にもしていないかったちっぽけな人形

ごときでも、なくなったとなれば、子供の所有欲は

最大値に跳ね上がり、失った事実に対して、

受け入れ不可能状態がしばらく続いた。

(そうやっていくつもの喪失感を経ておとなになるのだよ)

                                                          

ひとつの物であれほど泣けるなんて、私には郷愁に近い、

そして今では忘却の彼方へと置いてきた、

二度と取り戻すことのできない感情だっなあと、

しみじみ思い出してみた、あの夏の日の出来事。

                                                       

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腰の上のプニョ

 2月1日より、腰周りを覆う、ぷにょぷにょな脂肪を

落とす!と決意し、日々努力しました。

去年の春くらいから急におなか周りのぷにょぷにょを

感じるようになり、ややローライズのジーンズなどを

はくと、その上にどっかんとお肉が乗っかるという、

恐怖にみまわれるようになった。

                                                        

それまではどんなに甘いものを食べようと、

たいして運動などもしていなくても

脂肪がついて重い、なんて経験がなかったので、

見て見ぬふり、錯覚、幻覚、空耳・・・・と無理やり

自分を誤魔化しては来たものの、

いよいよ、何をする気も失せ気味、エネルギーの低下、

というその現実に直面して初めて、

甘いもの好きな食生活を改めなければ、と思ったのでしたweep

                                                           

で、約一週間ほどで、腰周り、太ももがすっきりしてきました。

何をやったかといいますと、

TVなど見ながら毎日朝と夜に、10分間ずつ、

腰をぐるぐるまわし(フラフープをまわしているかのように)、

湯船に浸かって、太ももと腰周りの脂肪をマッサージし、

搾り出すように刺激をあたえてみました。

                                                          

一週間で効果が出ました。

同時に、毎日食べていたチョコレートの量を減らし、

たんぱく質と野菜を意識して多く摂るようにし、

常温の水を朝、午前中、午後にコップ一杯ずつ

飲むようにしました。

                                                         

つまりは原因は結果をもたらす、ということに尽きます。                                                         

とり過ぎた余分なカロリー(私の場合、炭水化物)は

しっかりたまり、消費し、刺激を与えれば減る。

                                                          

思えば、20代中頃の独身の時には、

毎日人に見られる接客業だったので、毎晩のように、

下半身引き締め体操を取り入れ、太ももとお尻の脂肪

をもみ出すべくマッサージをし、刺激を与えて、

数年ぶりに会った友に、

 「足が細くなったね~!!」とほめられたものでした。

                                                         

でも、当然何もしなくて甘やかし、ほうっておけば

いずれまた元に戻るってこと。

体を鍛えたり、体脂肪と体重をコントロールすることは、

仕事や、やる気、物事の結果に、非常に大きな

影響をもたらすのではないだろうか、と思う。

(性格にもよるけれどね)

                                                       

あれ? 歩き方も変わってる。 姿勢も。

現実を少し変えるだけで、何だか、ぱーっと目の前が

広がったような気がしている。

”ハチドリの一滴” の精神で、やっていこうっと。

 

 

                                                              

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タイムトラベラー

 その人は、髪を結い、薄紅色の着物を纏い、

古めかしい顔つきをしていた。

どうやら、戦国時代か、江戸時代からタイムトリップ

してきた人のようだ。

そうかと思えば、こちらの日常に違和感無く溶け込み、

ともに生活をしているのだ。

                                                                  

若いのか年増なのか、たぶんそんなに年ではないであろう、

しかし、昔の人だ。

だとえ30そこそこでも、その昔は、30年も生きていれば

老け込み、老練したような雰囲気を持つのだろう。

こちらもそれを暗黙の了解にして、あれこれと、

食事の世話などをやいてもらっている。

                                                          

「こちら」は、家族が5、6人ほどの所帯のようで、

その人が、現代にそぐわないとんちんかんな食べ物を

用意しても、家族の構成員は文句も言わず、

その人の習わしにそってやっている。

その人は、働き者であった。

                                                        

ある時には、まるで現代人のように気さくに話し、振舞う。

で、こちらも調子に乗って、その人に幾度も問いかける。

(やっぱり現代の人なんだ。タイムトリップなんて

ありえない!)

 「あの、名前は?」

その人 「○○ ×△□」

(一度聞いて明らかに昔の人のだ、とわかる名前) 

                                                             

答えるその一声のたびに、うちとけていても、一線を

画した存在とわかる。

そして、こちらは、なぜか、がっかりと肩を落とす。

(いつかまた向こうの時代に戻ってしまうんだな・・・・)

                                                            

                                                            

 不思議な夢だった。

                                                                

                                                         

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